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名古屋高等裁判所 昭和40年(う)78号 判決

本籍 三重県名張市葛尾一七一番地

住居 同県四日市市昌栄町二八番地南起荘内

ガソリンスタンド従業員(ただし、もと農業) 奥西勝

大正一五年一月一四日生

右の者に対する殺人・同未遂被告事件につき、津地方裁判所が昭和三九年一二月二三日言い渡した無罪判決に対し、原審検察官から適法な控訴の申立があったので、当裁判所は、検察官荒井健吉、同船越信勝出席のうえ、審理をして、次のとおり判決する。

主文

原判決を破棄する。

被告人を死刑に処する。

理由

本件控訴の趣意は、津地方検察庁検事荒井健吉作成名義の控訴趣意書に記載されているとおりであり、これに対する答弁は、弁護人長井源、同杉浦酉太郎、同吉住慶之助共同作成名義の昭和四〇年六月二九日付「意見書」と題する書面および弁護人長井源作成名義の同年八月六日付「上申書」と題する書面に、それぞれ記載されているとおりであるから、ここにこれらを引用する。

検察官の本件控訴趣意は、多岐に亘っているが、要するに、本件においては、任意性はもちろん信憑性も十分に兼ね備えた被告人の自白のほか、これを補強するに足る十分な状況証拠があるにかかわらず、原判決が、本件につき、被告人の犯行と認めるに足る証拠がないとして、無罪の言渡をしたのは、結局採証の法則に違背し、証拠の取捨判断を誤ったばかりでなく、審理不尽の結果、事実誤認の違法を犯したものであるから、原判決は破棄を免れないといい、弁護人らにおいては、これに事実の誤認がない、というのである。

ところで、記録によると、本件の公訴事実は、「被告人は昭和二二年一月妻チヱ子(当三四年)と恋愛結婚をして一男一女をもうけ、名張市葛尾一七一番地の自宅で農業のかたわら、日稼に従事しているものであるが、同三四年八月頃から、当時夫に死別して後家になった同所一五五番地農業北浦ヤス子(当三六年)と情交関係を結び、以来同所観音寺下の竹藪等を逢引の場所として関係を続け、その間衣類等を買い与えたことも二、三回あるが、この事が漸次部落の噂にのぼり、同三五年一〇月二〇日頃の夜、右竹藪で逢引の直後、附近道路を二人で歩いているところを妻チヱ子に見付けられて、同女の不信をつのらせ、以来夫婦円満を欠き、事々に喧嘩して家庭に風波が絶えず、殊に同三六年二月初頃からは、それが一層険悪化して、被告人の命じる着衣の洗濯その他の用事さえ素直にはしないぐらいに冷淡薄情な反抗的態度に出られ、一方ヤス子もチヱ子から散々責められる上に部落の人達からも手厳しく非難されはじめたために、被告人との関係に嫌気がさし、次第に被告人から離れようとする態度を見せはじめ、同月二〇日頃の夜最後に逢引したときには、これ限り関係を絶ちたいと言い出す始末となったので、妻の仕打ちに対する憤慨とヤス子の心変りに対する恨みから、心を腐らせてやけくその気分になり、いっそのことチヱ子、ヤス子の二人を殺して、右三角関係を一挙に清算してすっきりした気持になろうと考えるようになった。そして、右二人を殺しても、自分の犯行とわからないようにする方法や場所等につき、あれこれと考えているうち、たまたま同年三月二六日になって、かねて居村部落葛尾の一八戸と隣接の奈良県山辺郡山添村分の葛尾の七戸、合計二五戸から、一戸毎に一人又は二人づつ出て、男子一二人、女子二四人、合計三六人の会員をもって組織している生活改善クラブ『三奈の会』の年次総会が、同月二八日の夜同市葛尾七六番地にある同市薦原地区公民館葛尾分館で開催されることを知り、右『三奈の会』には、かねて被告人、チヱ子、ヤス子の三人共に会員となっている外、この総会では、二、三年前からの慣例として、そのあと引続いて懇親会が催されて一同酒食を共にし、女子会員達にも男子側の酒とは別に、ぶどう酒が出されることになって居り、仮にそれが出されないでも、その代用として砂糖入りの酒が出されるものと予想されたので、この懇親会の機会を利用し、その婦人専用の酒に、有機燐製剤の農薬『ニッカリン・T』を入れて飲ませる方法を思いつき、この方法によれば、女子会員中特に酒好きなチヱ子、ヤス子の二人を間違いなく殺せるが、二人の外、出席の女子会員多数を殺す結果となっても、犯跡隠蔽のためには、この方法より外ないと考えるようになった。そこで、同月二七日夜自宅で女竹一本を適当に切って竹筒一個を作り、これに同三五年八月九日頃、同市新町の黒田薬品商会から買受けて所持していた一〇〇cc瓶入の右農薬『ニッカリン・T』のうちから、相当量うつし入れてその用意をととのえた。そして総会当日の三月二八日には午後五時二〇分頃右準備した『ニッカリン・T』入りの竹筒を上衣のポケットに忍ばせて自宅を出て、前記会場に出掛ける前、隣家の同会々長奥西楢雄方に立寄ったところ、同家表玄関上り口の小縁に、当夜の飲料として瓶詰ぶどう酒(三線ポートワイン)一、八リットル入一本と同日本酒二本が用意されていたので、その瓶詰ぶどう酒に『ニッカリン・T』を入れようと最後的決意をかため、直ちに右三本の酒を一人で携えて前記公民館に運び、一先ず館内囲炉裏の間の流しの前あたりに置いたが、一足遅れて会場準備のため入って来た同会々員坂峰富子が雑巾を取りに右奥西楢雄方に戻り、館内に居るのは被告人唯一人となった隙に乗じ、ひそかに右瓶詰ぶどう酒の栓を抜いて、そのなかに所持していた右竹筒入りの『ニッカリン・T』を四乃至五cc位入れた上、栓と包装紙を元通りに直して置き、同日午後八時前後総会が終り、間もなく懇親会にうつった席上に、右『ニッカリン・T』の混入されたぶどう酒瓶一本を出させ、その全量を出席の女子会員右チヱ子、ヤス子、奥西フミ子(当三〇年)、中島登代子(当三六年)、新矢好(当二五年)、福岡二三子(当三七年)、坂峰富子(当二九年)、井岡百合子(当四二年)、伊東美年子(当二九年)、植田民子(当二九年)、神谷すず子(当三四年)広岡操(当三七年)、中井文枝(当三二年)、石原房子(当三九年)、高橋一己(当三四年)、今井艶子(当三五年)、浜田能子(当二九年)、岡村清子(当三三年)、南田栄子(当二五年)、中井八重(当四二年)の合計二〇人に各自の湯呑茶わんに分け注いで飲ませ、これら二〇人全員を殺そうとした。その結果何れもその飲用による有機燐中毒のため、うちチヱ子、ヤス子、フミ子、登代子、好の五人を夫々間もなく右現場でこん倒死亡するにいたらせて殺害の目的を遂げ、二三子を全治迄に一ヶ月以上を要する瀕死の重態に陥らせ、富子、百合子、美年子、民子、すず子、操、文枝、房子、一己、艶子、能子の一一人に夫々入院加療数日乃至一ヶ月程を要する重軽症を負わせ、清子、栄子、八重の三人は何れも全然飲用しなかったため何等の中毒症も起さずに終り、何れも殺害の目的を遂げなかったものである。」(罪名、殺人、同未遂、罰条、刑法第一九九条、第二〇三条)というのであり、これに対し、原判決が無罪の言渡をした理由は、要するに、

(一)  本件のぶどう酒が奥西楢雄方に届けられたのは、本件犯行のあった日の午後四時以前であって、同ぶどう酒が奥西楢雄方から公訴事実記載の公民館に運ばれたまでの約一時間の間にも、同ぶどう酒中に毒物を混入する機会は十分あったと思料されるから、検察官の「毒物混入の機会は公民館において被告人がただ一人となった一〇分間をおいて他にない」との主張には賛成できず、≪以下原判決書の引用表示―省略≫

(二)  被告人のいわゆる各自白調書中の本件犯行の動機、準備、実行に関する各供述記載部分は、いずれも不自然であって、信憑性がないばかりでなく、その各供述記載部分を補強すべき十分な証拠もなく、

(三)  検察官が本件の証拠物として提出した証第二号の耳付冠頭を初め、証第四号および同第五号の各封緘紙、証第一九号の四ツ足替栓の各発見場所についても疑問があり、

(四)  証第一九号の四ツ足替栓については、またそれが証第一号のぶどう酒瓶に装着されていたものであるかどうか、も甚だ疑問であり、

(五)  原裁判所において取り調べた各鑑定書等を検討してみても、前記証第一九号の四ツ足替栓の表面につけられた痕跡が、被告人の歯牙によってつけられたものであるかどうか明らかでなく、

結局本件は、被告人の犯行と認めるに足る証拠がない、というのである。

そこで、以下原審で取り調べた証拠をし細に検討し、当審における事実取調べの結果をも参酌したうえ、まず第一に、被告人のいわゆる自白調書を除外した爾余の証拠により、本件が認定し得られるか否かについて考察したうえ、次に原判決の判断の順序に従い、その事実認定の当否について検討を加えることとする。(なお、本判決書においても、以下略語を使用したが、その詳細は、本判決書末尾添付の別紙(二)略語表参照のこと)

第一、被告人のいわゆる自白調書を除外した爾余の証拠により、本件が認定し得られるか否かについて。

(一)  神谷花子の36・4・20検≪記録冊丁の表示略、―以下同≫、奥西政信の36・4・18検、奥西タツノの36・4・19検、同36・4・20検、籔下絹子、桂絹子、桂きぬまたは桂きぬ子こと桂キヌ子の36・4・18検、同36・4・20検、同36・9・18原裁尋、奥西楢雄の36・4・8検、同36・4・10検、同43・11・7当裁尋、坂峰冨子36・4・7検、石原房子の36・4・8検、井岡百合子の36・4・11検、神谷すず子の36・4・8検、同43・11・8当裁尋、高橋一己の36・4・8検、今井艶子の36・4・23検、同36・5・8検、広岡操の36・4・15検、岡村清子の36・4・15検、中井文枝の36・4・12検、福岡二三子の36・4・13検、同36・4・23検、同36・4・27検、植田民子の36・4・15検、伊東美年子の36・4・23検、平井藤太郎の36・5・8検、平井美子の36・4・23検、北浦モトエの36・4・18検、神谷逸夫の36・4・23検、山田清松の43・11・7当裁尋、黒田敬一の36・4・15検、原審第二回公判調書中の証人坂峰冨子の供述記載、原審第一回、同第七回、同第八回各公判調書中の被告人の各供述記載および被告人の手記(ただし、以上の各証拠のうち、後記認定に反する部分は、爾余の証拠に照らし、いずれもたやすく措信できないので、これを除く)を総合すると、

(1)  被告人は、肩書本籍地で父政信、母タツノの長男として出生し、同地の尋常高等小学校を卒業後、約二年間、両親のもとで、農業の手伝いをしていたが、昭和一七年一二月ごろから、名張市内の近鉄西名張検車区に車両の電気関係の修理工として稼働するようになり、その後、一時軍務に服したものの間もなく終戦で復員し、再び右検車区に復職し稼働中、妻チヱ子と知り合い恋仲となり、昭和二二年二月ごろ同女と恋愛結婚をし、程なく近鉄を辞して本籍地に帰り、両親と共に再び農業に従事するようになり、右チヱ子との間に長男勝久、長女久子の一男一女をもうけ、夫婦仲も円満であった。ところが、被告人は、その後、昭和三三年七、八月ごろから同じ部落の北浦ヤス子方にしばしば出入りするようになって、同女と恋仲になり、翌三四年七月一日ごろヤス子の夫北浦英夫が死亡した後、間もない同年八月ごろから、右ヤス子と情交関係を結び、爾来同部落の観音寺下の竹藪等を逢引きの場所として、同女と情交関係を続け、その間、同女に衣類等を買い与えたことも数回あり、被告人と右ヤス子との関係が、その関係直後ごろから、漸次右部落民の噂にのぼっていたこと、

(2)  昭和三五年一〇月二〇日ごろの夜、被告人が前記竹藪で前同ヤス子と逢引きした後、その附近の道路を、同女と連れだって歩いていた折柄、これを妻チヱ子に発見され、それ以来同女の不信をかい、夫婦仲も次第に円満を欠き、喧嘩口論の末、被告人において、妻チヱ子に対し暴言を吐き、時に暴力を振うこともあり、昭和三六年三月ごろには、二人の仲は相当険悪化し、チヱ子において、真剣に夫婦別れのことまで考えるようになっていたと思料されること、

(3)  一方ヤス子は、前記の如く被告人との関係が、居村部落民の噂にのぼり、同部落民から、被告人との関係をかれこれ非難され、昭和三五年一一月頃には、同部落の平井美子と、また昭和三六年一月頃には同じく同部落の神谷すず子らとそれぞれ些細なことから喧嘩口論をしたこともあったこと、

(4)  これよりさき、被告人は、昭和三五年八月九日ごろ、名張市新町二一八番地薬品塗料販売業黒田商会こと黒田敬一をして、一〇〇cc瓶入りの農薬ニッカリン・Tを被告人方まで届けさせて、これを買受け、自宅の風呂場の焚き口前附近土間所在の棚の上に置いてあった農薬類を入れたボール箱内に保管していたが、被告人は、これを、本件が発生するまで、自己の両親らにも話さないで隠していたこと、

(5)  被告人方では、家族が農薬を使用する場合には、被告人から農薬を取り出してもらい使用しており、本件当時前記ボール箱内にニッカリン・Tが入っていたことを知っていたのは、被告人以外にはなかったと思料されること、

(6)  昭和三六年三月二八日夜名張市葛尾七六番地の同市薦原地区公民館葛尾分館(以下公民館と略称する)において、被告人らの居住部落である同市葛尾部落の一八戸と隣接の奈良県山辺郡山添村葛尾の七戸合計二五戸から、一戸毎に、一人または二人ずつ出て、男子一二人、女子二四人、合計三六人の会員をもって組織している生活改善クラブ「三奈の会」の年次総会が開催され、被告人、その妻チヱ子、前記北浦ヤス子の三名が右総会に出席したが、被告人は当時「三奈の会」の役員でもないのに、いち早く「三奈の会」の会長奥西楢雄方に赴き、同人方の玄関上り口小縁に置いてあった一、八リットル入り瓶詰ぶどう酒(三線ポートワイン)一本と同じく一、八リットル入り瓶詰清酒二本を持って、一人さきに前記公民館に行ったこと、その際、同公民館内では、被告人は、右総会の準備としては、僅かに囲炉裏の火を燃やして、湯を沸かした程度にすぎなかったこと、

(7)  ところで、右の総会に先きだって、同年三月二六日前記公民館において、「三奈の会」の総会の準備役員会が開催された際、同役員会において、右総会後に開催される懇親会に、男子会員のための清酒とは別に、女子会員用の飲み物として、ぶどう酒を出すか否かの決定は、予算の関係上、前記「三奈の会」の会長奥西楢雄に一任することにしたが、当時右役員会に出席した人の中には、右の懇親会に男子会員のための清酒とは別に女子会員用の飲み物として、ぶどう酒が出されるであろうとひそかに予想していたものもあったことが認められ、右役員会に出席していた被告人の妻チヱ子も、その間の事情を知悉していて、同日夜これを被告人に伝えていたと思料されること、

(8)  被告人は、前記ぶどう酒瓶などを公民館に運んだ後、被告人の後から同公民館に入って来た坂峰冨子が、総会の会場となるべき部屋に机などを出して並べた後、奥西楢雄方へ雑巾などを取りに行き、再び同公民館に引き返してくるまでの間、約一〇分間位、一人で同公民館内にいたこと、

(9)  被告人は、さきに同人が奥西楢雄方の玄関上り口小縁さきから運んで来た前記ぶどう酒瓶などを、公民館の囲炉裏の間の流しの前の板敷きの部分に、三本並べて置いたこと、

(10)  前記「三奈の会」の総会後、引き続き開催された懇親会の席上で、女子会員用の飲み物として出された前記ぶどう酒を飲んだ被告人の妻チヱ子を初め、北浦ヤス子、奥西フミ子、中嶋登代子、新矢好の五名が死亡し、福岡二三子、坂峰冨子、井岡百合子、伊東美年子、植田民子、神谷すず子、広岡操、中井文枝、石原房子、高橋一己、今井艶子、浜田能子の計一二名がそれぞれ重軽傷を負ったこと、

がそれぞれ認められ、

(二)  三重県立大学医学部法医学教室医師舟木治作成の鑑定書、三重県警察本部刑事部鑑識課勤務の技術吏員萩野健児ほか二名共同作成名義の36・7・17付鑑定書、三重県衛生研究所技師須藤輝行作成の36・7・17付「試験成績書」と題する書面、三重県衛生研究所長から三重県警察本部刑事部捜査第一課長宛の36・9・5付捜査関係事項照会に対する回答書添付の三重県衛生研究所技師伊藤和子ほか四名共同作成名義の試験成績書、医師桝田敏明作成の奥西フミ子、中嶋登代子、新矢好の各死体検案書、および福岡二三子、井岡百合子、植田民子、石原房子、今井艶子に対する各診断書、医師上久保康夫作成の坂峰冨子、伊藤美年子こと伊東美年子、神谷すず子、広岡操、中井文枝、高橋一己に対する各診断書、医師野村和男作成の浜田能子に対する診断書、原審第四回、同第一七回各公判調書中の証人萩野健児の各供述記載および原審第一七回公判調書中の証人須藤輝行、同舟木治の各供述記載を総合すると、

(1)  奥西フミ子、北浦ヤス子の各死因は、いずれも有機燐のテップ剤による中毒死であったこと、

(2)  前記「三奈の会」の総会後に開催された懇親会に出されたぶどう酒中には、有機燐のテップ剤が混入されていたこと、

(3)  福岡二三子、坂峰冨子、井岡百合子、伊東美年子、植田民子、神谷すず子、広岡操、中井文枝、石原房子、高橋一己、今井艶子、浜田能子の各傷害も、それぞれ有機燐のテップ剤によるものと推認されること、

(4)  ニッカリン・Tは、日本化学工業株式会社製の有機燐製剤のテップ剤の製品名であること

がそれぞれ認められ、

(三)  西川善次郎の36・6・5検、同36・3・29司二通、同36・3・30司、梅田英吉の36・4・20司、杉山茂の36・3・29司、林周子の36・4・16検、副野清枝の36・4・16検、石原利一の36・3・29司二通、同36・3・30司(ただし、同供述調書中後記認定に反する部分は爾余の証拠に照らし、たやすく措信できないのでこれを除く)、同36・4・11検、同36・11・27原裁尋、神田赳の36・3・30司、同36・4・16検、同36・11・27原裁尋、原裁判所の36・11・27施行の検証調書(その一)および司法警察員作成の36・5・1実見を総合すれば、

(1)  前記「三奈の会」の総会後に開催された懇親会に、女子会員用の飲み物として出されたぶどう酒は、通称三線ポートワインの名称で呼ばれ、大阪市浪速区西円平町一、〇〇九番地所在の西川洋酒醸造所こと西川善次郎方において、昭和三五年一二月一七日タンクに仕込み、昭和三六年一月一六日瓶詰され、名張市中町三四九番地酒類販売業梅田英吉商店を経由して、同年一月二〇日ごろ、同市薦生三五二番地林酒店こと林周子方に卸された三〇本のうちの一本であって、前記「三奈の会」の総会当日の午後右林周子方において、同人の弟の妻である副野清枝から、薦原農業協同組合(以下、単に農協と略称する)の職員であり、かつ「三奈の会」の会員である石原利一に対し一、八リットル瓶入り清酒二本と共に売り渡されたものであること、

(2)  そして、右ぶどう酒は、一、八リットル入りの瓶に瓶詰めされており、その瓶の上部には、裏側にコルクを張ったいわゆる四ツ足替栓と称する金属製の蓋がしてあり、そのうえを、更にいわゆる耳付冠頭と称する金属製の蓋が四ツ足替栓を押えるようにして二重に蓋をし、右四ツ足替栓の足の部分と耳付冠頭のいわゆる耳の部分はいずれも封緘紙で巻いてあり、また耳付冠頭の下部にはギザギザが付いていて、容易に蓋が開かないようになっており、瓶は全部が包装紙で包んであったこと、

(3)  石原利一は、前記林酒店前から、右のぶどう酒一本と清酒二本をもって、薪炭商神田赳の運転する小型四輪貨物自動車の助手席に乗り、名張市葛尾一五九番地奥西楢雄方前まで至り、同所で、右貨物自動車に乗ったままで、助手席の窓から、楢雄の妻奥西フミ子に対し前記ぶどう酒一本と清酒二本を手渡したこと、

(4)  右の林酒店前から奥西楢雄方前までは、前記小型四輪貨物自動車で、所要時間約七分程度の距離であるが、石原利一は、右の如く林酒店から奥西楢雄方前に至るまでの間、前記ぶどう酒の瓶と清酒の瓶二本を自己の膝の上にのせて、これを抱きかかえるようにして持っていたが、別段、右のぶどう酒の瓶や清酒の瓶をいじったりなどはしておらず、林酒店から買って来たままの状態で、右奥西フミ子に対し手渡したこと、

(5)  西川洋酒醸造所製造のぶどう酒は、当時一ヶ月約五、〇〇〇本位が出荷され、近畿地方はもちろん、北陸、中国、四国方面で広く市販されていたが、同醸造所製造のぶどう酒による中毒事件は、本件以外には一件も発生していないこと、

がそれぞれ認められ、

(四)  前掲原審第四回公判調書中の証人萩野健児の供述記載、黒田敬一の36・4・15検、三重県警察本部刑事部鑑識課勤務の技術吏員大西永一作成名義の36・9・22付実験結果回答書、および日本化学工業株式会社発行の「農薬強力接触殺虫剤ニッカリン・T云々」と題するパンフレットの一枚目裏の「ニッカリン・Tの正しい使い方」の項目欄における記載部分を総合すると、有機燐のテップ剤は、それ自体としては極めて猛毒性を有しているが、水で希釈した場合には、加水分解が速く、毒性が減弱して無毒化することが認められる。したがって、有機燐のテップ剤のかかる特性と、前記(三)の(1)および同(5)記載の各事情を総合考察すると、原判決も認定しているとおり、本件ぶどう酒の製造過程において、同ぶどう酒内に、ニッカリン・Tその他の有機燐のテップ剤が混入したものとは到底認められず、本件ぶどう酒中の有機燐のテップ剤は、前記懇親会が開かれた昭和三六年三月二八日午後八時に比較的近接した時刻に混入されたものと推認され、

(五)  稲森民子こと稲森民の36・4・18検、同36・4・11司、同36・4・20司、同36・4・21司、同36・11・28原裁尋、同36・12・8原裁尋、稲森ゆうの36・4・20検(原判決書に36・4・18検とあるのは36・4・20検の誤り)、同36・4・19司、同36・11・28原裁尋、奥西コヒデの36・4・18検、同36・4・20検、同36・4・4司、井岡百合子の36・4・11検、同36・4・18検、同36・3・31司、同36・4・7司(原判決書に36・4・7司二通とあるのは一通の誤り)、同36・4・8司、同36・11・27原裁尋、神谷逸夫の36・4・23検、同36・4・20司、同36・12・8原裁尋(ただし、以上の各証拠のうち、後記認定に反する部分は、爾余の証拠に照らし、いずれもたやすく措信できないのでこれを除く。なお、以上の各証拠のうち、原判決が真実を伝えていないという稲森民、稲森ゆう、奥西コヒデ、神谷逸夫の各供述調書の信憑性については、後記第二の「本件ぶどう酒が奥西楢雄方に運ばれた時刻の点について」の項で詳述するので、ここではこれらの点についての説明はこれを省略するが、右の各証拠は、その各供述記載の形式内容などからみて、いずれも信憑性に欠くる点がないものと認められる)、坂峰冨子の36・4・7検のほか、稲森民43・11・5の当裁尋、検察官の36・4・22施行の検証調書、および当裁判所の43・11・4施行の検証調書を総合すると、奥西フミ子は、前記「三奈の会」の総会のあった日に、出産のため、奥西楢雄方へ帰って来た同人の妹の稲森民に付き添って来た同人の姑の稲森ゆうを、右の稲森民や子供の奥西久雄、同哲也らと共に見送って行き、再び、奥西楢雄方まで引き返して来た直後、前記石原利一らが本件ぶどう酒を運んで来たので、これを、前記のとおり奥西楢雄方前の道路上で受け取り、直ちに、同人方玄関上り口小縁の西端附近に置いておき、玄関から土間続きの炊事場に行き、既に同所に来合わせていた井岡百合子や奥西チヱ子らと「三奈の会」の懇親会に出す食事の準備をしていたところ、間もなく、坂峰冨子が奥西楢雄方を訪れ、それと相前後して、被告人も奥西楢雄方へやって来て、「何か持って行くものはないか」など尋ねたため、被告人に対し、玄関上り口小縁に置いてあるぶどう酒の瓶などを公民館に持って行くよう依頼し、被告人は、右奥西フミ子の依頼に応じ、前記ぶどう酒の瓶などを抱えて、坂峰冨子より一足先きに、奥西楢雄方を出て、公民館に行ったこと、そして奥西フミ子が、右ぶどう酒の瓶などを奥西楢雄方の玄関上り口小縁に置いてから、被告人がこれを公民館に運んで行くまでの間に、右ぶどう酒の瓶などに触れたものは誰もいなかったことが認められ、

(六)  前掲坂峰冨子の36・4・7検および同36・4・22検、石原房子の36・4・8検、同36・4・28検、神谷すず子の36・4・8検、岡村登の36・4・11検、中井やゑの36・4・16検、福岡二三子の36・4・13検、同36・4・27検、植田民子の36・4・15検、同36・4・28検ならびに検察官の36・4・22施行の検証調書、当裁判所の41・1・20施行の検証調書を総合すると、

(1)  坂峰冨子は、さきに(一)の(8)で認定したとおり、被告人のあとから続いて公民館に入り、総会の会場となるべき奥の部屋に机などを並べ始めたが、机の上がよごれていたため、雑巾を取りに奥西楢雄方へ行き、同人方から雑巾や小柴の焚き付けなどを持って、再び公民館へ引き返す途中、公民館への上り坂下附近で、後から来た石原房子に会い、同人と話しながら、公民館へ引き返し、持って来た小柴の焚き付けを囲炉裏の傍に置き、さきに並べておいた机の上などを拭き、石原房子は、囲炉裏の間を箒で掃いて掃除をするなどした後、右の両名が囲炉裏の傍で囲炉裏の火を燃やしていた被告人の前附近に集り、被告人を交え、三人で雑談などしていたが、間もなく北浦ヤス子や中嶋登代子、奥西チヱ子らが公民館に来て、同人らに続き、他の会員たちも順次公民館に集って来て、それぞれ囲炉裏の間や奥の会場の間などで、坐って、総会が始まるのを待っていたこと、

(2)  また「三奈の会」の総会の開かれた会場の間と囲炉裏の間とは、障子によって、仕切られているが、同総会が開かれていた間、右の障子のうち、会場の間の東南隅の囲炉裏寄りの障子一枚分位が開かれていたため、会場の間から、囲炉裏の間におけるぶどう酒等の置いてあった場所がよく見渡せるような状況であったこと、

などがそれぞれ認められるので、以上の事実に徴すると、坂峰冨子と石原房子の両名が公民館へ引き返してから以後においては、ニッカリン・Tなどを人知れず、密かに、本件ぶどう酒内に混入することは到底不可能であったと思料され、

(七)  司法警察員作成の36・4・2捜査、三重県警察本部刑事部鑑識課勤務技術吏員萩野健児ほか二名共同作成名義の36・7・17付鑑定書、原審第四回公判調書中の証人萩野健児の供述記載、岡田徳夫の36・11・28原裁尋、および原審第一三回公判調書中の証人岡田徳夫の供述記載を総合すると、本件発生後の昭和三六年四月二日名張警察署勤務の司法警察員岡田徳夫らが、上野簡易裁判所裁判官の発布した捜索差押許可状にもとづいて、被告人方を捜索した際には、被告人が、さきに黒田敬一から購入して保管して置いた前記ニッカリン・Tは、被告人方の風呂場の焚き口前附近土間所在の棚の上に置いてあった農薬類を入れたボール箱内に発見できなかったことが認められ、

(八)  奥西政信の36・4・18検、奥西タツノの36・4・19検、同36・4・20検、岡美代子の36・4・23検、原審第四回公判調書中の証人桂きぬ子こと桂キヌ子の供述記載、岡村清子の36・4・28検、広岡操の36・4・28検、石原房子の36・4・28検、高橋一己の36・4・28検を総合すると、

(1)  被告人の妻チヱ子は、真面目な辛抱強い、しかも朗らかな性格の持主であったこと、

(2)  右チヱ子は、本件犯行当時、被告人や北浦ヤス子らと奈良県山辺郡山添村の波多野街道沿いの石切場に働きに行っていたが、本件犯行のあった三月二八日の夜公民館へ行く前に、魚の切身を焼くなどして、被告人と自己の翌日の弁当のおかずの用意までしていたこと、

(3)  被告人の妹岡美代子が、三月二八日午後五時五〇分ごろ、被告人方を訪れた際、右チヱ子に会ったが、同女に平素と変った素振りが見受けられなかったこと、

(4)  被告人の長女久子は、右チヱ子が三月二八日の夜公民館に行く前に、同チヱ子から、「今夜は折詰の土産を持って帰ってやるから、寝ないで待っておれ」という趣旨のことを話されていたこと、

(5)  また右チヱ子は、「三奈の会」の総会の席でも、自己の席の前の机に頬杖をついて、「を引きもしないのに、文化部長になったから、私は知らん」とか、「文化部の用は盆位のもんやから、その時はレコードをかければ、歌を唄ってもらわなくても構わんわ」などといって、談笑していたこと、

がそれぞれ認められ、以上の事実に徴すれば、右チヱ子が本件犯行を敢行したものとは到底認め難いこと、また

(九)  高橋一己の36・4・8検、神谷すず子の36・4・28検、同36・4・8検および坂峰冨子の36・4・2司(ただし、以上の各証拠のうち、後記認定に反する部分は爾余の証拠に照らし、いずれもたやすく措信できないのでこれを除く)を総合すると、右チヱ子は、前記懇親会の席で、本件ぶどう酒を飲んで倒れる前に、「今夜は父ちゃん(被告人の意)が酒を飲むなといったのに」といった趣旨の言葉を口走っていたことが認められ、

(十)  司法警察員作成の36・4・7実見(ただし、同実況見分調書四枚目裏一行目に「写真10」とあるのは「写真No.3」の、同六枚目表二行目に「写真14」とあるのは「写真No.6」の、同九枚目表二行目に「MS」とあるのは「NS」の、同一〇枚目裏の一二行目に「写真10~19」とあるのは「写真18、19」のそれぞれ誤記と認める。以下同様)、同36・4・14実見および司法警察員巡査部長中北正一ほか一名の名張警察署長宛の36・3・30付証拠資料発見報告書によれば、

(1)  証第一九号の四ツ足替栓は、本件犯行の翌日である三月二九日午前一一時三〇分ごろ、巡査西井辻博によって、公民館の囲炉裏の間西隣の四畳半の間に置いてあった火鉢の灰の中から、

(2)  証第二号の耳付冠頭は、前同日午後四時ごろ、三重県警察本部捜査第一課巡査部長菊地武によって、公民館の囲炉裏の間東北隅の片開き戸のついた押入れ下段奥から、

(3)  証第四号の封緘紙大は、本件犯行の二日後の三月三〇日午後零時三〇分ごろ、前同刑事部鑑識課巡査部長中北正一ほか一名によって、前記片開き戸の取付箇所より約五六センチメートル東南方の壁際から、

(4)  証第五号の封緘紙小は、本件犯行の三日後の三月三一日午後二時一五分ごろ、巡査部長川合長生(原判決書に川谷長生とあるのは、川合長生の誤記と認める)によって、公民館の囲炉裏の間裏側の軒下に落ちていたのを、

それぞれ発見されたものであることが認められ、右の証第一九号の四ツ足替栓の表面には、前記西川醸造所において、瓶詰された他のぶどう酒(三線ポートワイン)の瓶に装着されている四ツ足替栓の表面に印刷されているマークと同様のNとSのローマ字を重ねたマークが印刷されており、また証第二号の耳付冠頭の上部には、ローマ字で、「NISHIKAWA DISTILLERY」と、下部には、漢字で、「西川洋酒醸造所」とそれぞれ印刷され、更に証第四号の封緘紙大にもローマ字で、「NISHIKAWA DISTILLERY」と印刷されており、しかもその各形状などからみて、右の各証拠物は、西川洋酒醸造所において瓶詰されたぶどう酒(三線ポートワイン)の瓶に装着されていたものであると認められるし、また証第四号の封緘紙大と証第五号の封緘紙小とを比較検討すると、その各形状および表面に印刷された文字の内容などみて、右の各封緘紙はもともと一枚のものであったが、何人かによって破られて、それぞれ別個の封緘紙の断片になったものであって、証第五号の封緘紙小も証第四号の封緘紙大と共に西川洋酒醸造所において瓶詰されたぶどう酒の瓶に装着されていた封緘紙の一断片であると認められる。そして、

(十一)  司法警察員巡査長谷川嗣郎の名張警察署長宛の36・3・28付報告書、司法警察員巡査部長濱秋蔵の名張警察署長宛の36・3・28付報告書、司法警察員作成の36・3・28領、三重県警察本部刑事部鑑識課技術吏員萩野健児作成の36・5・11付鑑定書末尾添付の写真および証第一号の三線ポートワイン空瓶一本によると、右の証第一号の三線ポートワイン空瓶一本は、本件発生直後の昭和三六年三月二八日午後九時四〇分ごろ、名張警察署勤務の巡査部長濱秋蔵が、同署勤務の巡査長谷川嗣郎と共に、前記公民館に至り、同公民館において領置したものであって、右空瓶の外側に貼付されたラベルにより、容易に前記西川洋酒醸造所において製造された三線ポートワインの空瓶であることが認められる。そして、右の空瓶の上部には、明らかに封緘紙の一断片と認められる紙片が附着しており、同紙片は、その形状および印刷文字などからみて、前記証第四号および同第五号の各封緘紙と相連絡してこれと一体をなしていたものと認められ、また

(十二)  また司法警察員作成の36・4・7実見、同36・4・12実見、同36・4・14実見、岡田徳夫の36・11・28原裁尋、および原審第一三回公判調書中の証人岡田徳夫の供述記載を総合すると、名張警察署の捜査官は、三重県警察本部刑事部鑑識課ならびに同刑事部捜査第一課の応援のもとに、本件犯行の翌日である三月二九日以降連日に亘って、公民館の囲炉裏の灰の中から便所の肥つぼの中に至るまで公民館の内外を隈なく捜索し、証拠物件の収集にあたったが、その結果収集して得たのが、前掲の各証拠物件であって、他に証第一号の三線ポートワインの空瓶の四ツ足替栓および耳付冠頭と認むべき物件はどこにも見当らなかったことが明らかであるから、前掲の証第一九号の四ツ足替栓を初め、証第二号の耳付冠頭、同第四号の封緘紙大および第五号の封緘紙小は、いずれも証第一号の三線ポートワインの空瓶に装着されていたものと認められる。果して、そうだとすると、前記ぶどう酒にニッカリン・Tを混入した場所は、まさしく公民館の囲炉裏の間であったと推認されるのである。そして囲炉裏の間において、右ぶどう酒にニッカリン・Tを混入し得たとすると、以上認定の事実関係からして、それは、坂峰冨子が被告人に続いて公民館に入り、奥の部屋に机などを出して並べた後、雑巾を取りに奥西楢雄方へ行き、再び公民館へ引き返して来るまでの約一〇分間、公民館内にただ一人でいた被告人以外にないと思料されるのである。

(十三)  そして、また原審第一三回公判調書中の証人柏谷一弥、同山本勝一、同真田宗吉の各供述記載、同第一四回公判調書中の証人柏谷一弥、同山本勝一の各供述記載、原審第一六回公判調書中の証人古田莞爾の供述記載、当裁判所の鑑定人兼証人古田莞爾に対する尋問調書、当審第七回公判における鑑定人兼証人松倉豊治の供述によると、科学警察研究所警察庁技官柏谷一弥ほか三名共同作成の鑑定書(以下、これを柏谷鑑定と略称する)、名古屋大学医学部教授古田莞爾作成の鑑定書(以下、これを古田鑑定と略称する)および大阪大学医学部教授松倉豊治作成の鑑定書(以下、これを松倉鑑定と略称する)は、それぞれその各鑑定方法が、いずれも十分首肯し得るものであることが認められ、これら各鑑定書ならびに右各鑑定人兼証人らの各供述記載ないしは供述に徴すると、証第一九号の四ツ足替栓の表面につけられた痕跡のうち、歯牙によるものと認められるもの(すなわち、柏谷鑑定においてはaないしdの各符号のあるもの、古田鑑定においては(イ)ないし(チ)の各符号のあるもの、松倉鑑定においては(イ)ないし(カ)の各符号のあるもの)は、いずれも被告人の歯牙によってつけられたものと認められる。もっとも、慶応義塾大学医学部助教授船尾忠孝作成の鑑定書(以下、これを船尾鑑定と略称する)によれば、同鑑定人は、証第一九号の四ツ足替栓上の痕跡が、被告人の歯牙によって印象されたものとは断定し難い旨の鑑定をしているが、同鑑定は、原判決も指摘しているとおり、被告人が同人の右の歯で噛んであけたことが明らかな証第四二号の四ツ足替栓上の歯牙痕を、被告人の左右の歯牙によってできたかのごとき説明をしており、前記古田鑑定および松倉鑑定と比較して、その鑑定方法につき、措信しがたい点のあることが窺われ、到底採用し難く、また金沢大学医学部教授井上剛ほか一名作成の鑑定書によると、同鑑定は、歯牙の表面に出ている「周波条」の特徴に着目して、証第一九号の四ツ足替栓上および証第四二号の四ツ足替栓上などにつけられたそれぞれの痕跡内部の特徴を詳しく検査したうえ、右証第一九号の四ツ足替栓上の痕跡が、被告人の歯牙によって生じたものであるかどうかを検査しようとしたが、証第一九号の四ツ足替栓はもちろん、証第四二号の四ツ足替栓にも、既に多くの銹(錆の意)が発生しており、歯痕内部の特徴を詳しく検査できない状態であり、検査の可能の範囲内においては、証第一九号の四ツ足替栓上の痕跡が、明らかに被告人の歯牙によるものであるということができないというのであるが、前記松倉鑑定および当審第七回公判における松倉鑑定人兼証人の供述によれば、歯痕は、それを生ずる咬圧の方法とそれの印象される対象材との関係その他の条件によって、必ずしも、全く同一不動の痕跡を残すとは限らず、同一歯牙による歯痕であっても、条件によって、一見異る歯痕と見られるものを生ずることがあり得ることが認められるので、井上鑑定人らの採取した被告人の歯痕および証第四二号の四ツ足替栓上の歯痕のうち、条痕検査が可能であったものの中に、証第一九号の歯痕と同一視できる条痕が認められなかった(もっとも前記古田鑑定および松倉鑑定においては、証第一九号の四ツ足替栓上の痕跡内の条痕と、証第四二号の四ツ足替栓上の歯痕内の条痕は、いずれも一致しているのであるが)からといって、ただそれだけで、直ちに、証第一九号の四ツ足替栓上の痕跡が、被告人の歯牙によるものでないと断定するのは速断に過ぎる嫌いを免れ難く、またその鑑定方法にも船尾鑑定同様措信し難い点のあることが窺知される。したがって、井上鑑定もまた採用できない。更に、当審で取り調べた岡山大学教授三上芳雄作成の鑑定書(以下、これを三上鑑定と略称する)によれば、歯牙痕の個人識別法として、歯痕間隔による方法は、大部分が想像的鑑別に終る場合が大多数であり、また歯牙痕中における周波条の痕跡による鑑別方法も、硬い物体に印せられた歯痕の場合には、鑑別が不可能であって、結局証第一九号の四ツ足替栓上の痕跡が、被告人の歯牙によってつけられたものか否か判定することができないというのであるが、なるほど歯牙痕の個人識別法として、歯痕間隔による方法が極めて困難であって、多くの場合、三上鑑定のいうように想像的鑑別に終ることがないともいえないと思料されるけれども、古田鑑定および松倉鑑定をし細に検討してみても、これら鑑定が、三上鑑定のいうような想像的鑑定であるとは到底認め難く、また硬い物体に印せられた歯痕の場合、周波条による個人識別が極めて困難であることは、松倉鑑定もこれを指摘しているところであるが、松倉鑑定はもとより、吉田鑑定においても、証第一九号および同第四二号の各四ツ足替栓上のそれぞれの歯痕について、歯痕間隔による鑑別のほかに、周波条による鑑別をも加味されているところから考えると、本件について、周波条による鑑別が絶対にできないものとも認め難く、三上鑑定もまた採用に由ないものといわなければならない。

(十四)  上来の各説明に徴すれば、本件は被告人が、さきに認定したように、公民館にただ一人でいた僅か約一〇分位の間に、同所で、前記ぶどう酒の四ツ足替栓を歯で噛んであけ、所持していたニッカリン・Tを、右ぶどう酒内に混入したものと認めるに足り、本件は、被告人のいわゆる自白調書をまつまでもなく、被告人の犯行であったと断定するになんら支障がないと思料される。そうだとすると、本件について、これを認めるに足る証拠がないとして無罪を言い渡した原判決は、結局証拠の取捨判断を誤り、ひいて事実を誤認したものといわなければならない。

第二、本件ぶどう酒が奥西楢雄方に運ばれた時刻の点について。

原判決は、本件のぶどう酒が石原利一らによって奥西楢雄方に届けられた時刻は、奥西フミ子、稲森民らが稲森ゆうを見送って、奥西楢雄方を出発する前の二八日午後四時以前であったと認定し、その理由として、(一)稲森民は、右のぶどう酒授受の時刻について、司法警察員および検察官に対しては、同日午後五時一〇分である旨説明したのにかかわらず、原裁判所の証人尋問の際には、右時刻を忘れたともいい、また五時のサイレンを聞く前であったともいい、その供述内容が支離滅裂であり、また稲森ゆう、奥西コヒデ、神谷逸夫の各供述も真実を伝えておらず、副野清枝、林周子の各36・4・19検、神田赳の36・4・20検、石原利一の36・4・21検は、いずれも検察官が、前同人らの本件ぶどう酒授受の時刻についての従前の各供述の手直しを試みたものであるが、いずれも検察官の主張する五時一〇分説を支持するに足る内容を持っていないといい、また(二)午後五時一〇分ごろに、本件ぶどう酒が奥西楢雄方前で同人の妻フミ子に渡されたとすると、その一分位後には、右のぶどう酒を届けた石原利一、神田赳の乗って来た自動車は、右の楢雄方前から約一〇〇メートル位離れたところに在る倉庫前に到達していた筈であり、同所で、右の石原利一、神田赳の両名は、約五分間位、南田定一方に送られて来た飼料の荷おろしなどしていたのであるから、右の両名は、同倉庫前に午後五時一〇分ごろから同五時一五分ごろまでいたことになるが、一方坂峰冨子の36・4・2司、36・4・6司、36・4・7検、36・11・27原裁尋および神谷花子の36・11・27原裁尋によれば、坂峰冨子は、午後五時のサイレンを聞くと直ぐに、奥西楢雄方に向けて自宅を出発し、前記倉庫前附近に来た際、神谷花子から、同女方前より大声で呼び止められ、右倉庫前附近で、神谷花子の来るのを約二分位(神谷花子は五分位という)待ち、同所で約五分位立話をしていたことが認められるから、坂峰冨子は、右倉庫前に午後五時五分ごろから同五時一二、三分ごろまで、また神谷花子は、同所に午後五時八分ごろから同五時一二、三分ごろまでいたことになるのに、坂峰冨子、神谷花子の両名は、前記貨物自動車も石原利一らの姿も認めていないと供述しており、また石原利一らも、右の荷おろしの際、前記倉庫前附近で、坂峰冨子、神谷花子両名の姿を認めていないと供述しており、また広島よし子の36・12・8原裁尋によれば、同人は、昭和三六年三月二八日午後五時一〇分ごろに、名張市東田原の自宅で、二日位前に奥西楢雄から頼まれていた折詰を、石原利一に渡したことが認められるから、石原利一が、本件ぶどう酒を奥西楢雄方に届けた時刻は、午後五時一〇分ごろではなく、奥西フミ子、稲森民らが稲森ゆうを見送るために奥西楢雄方を出発する前の同日午後四時以前であった、というのである。

そこでまず、原判決が、供述内容が支離滅裂であるという稲森民子こと稲森民の36・4・11司、同36・4・18検、同36・11・28および同36・12・8各原裁尋をし細に検討してみると、右各調書は、いずれも稲森民が出産のため、本件犯行のあった日の昭和三六年三月二八日婚家先の母親稲森ゆうに伴われて、民の実家である奥西楢雄方へ帰って来てから、本件ぶどう酒が奥西楢雄方に届けられた前後の事情等について供述したものを録取したものであって、その各供述記載内容は、いずれも後述のぶどう酒授受の時刻の点を除けば、理路整然としていて、前後に矛盾撞着する点がなく、他の関係証拠ともよく符合しており、十分信用するに足るものと認められる。もっとも、右各調書によると、稲森民は、前掲各取調官に対して、それぞれ「奥西フミ子が本件ぶどう酒瓶などを石原利一から受取った時刻は、五時を少し過ぎた五時一〇分ごろかと思います」旨供述したことが認められ、また原裁判所の36・11・28施行の証人尋問の際、裁判長ならびに陪席裁判官から、本件ぶどう酒瓶の授受の時刻などの点について尋問を受け、「もう長いことたちましたので忘れました」旨答え、更に原裁判所の36・12・8施行の証人尋問の際、右の点について、陪席裁判官から、「岩屋のサイレンを聞いたのは、ぶどう酒を受け取った前ですか、後ですか」と聞かれ、「後です」と答えたことが認められるが、右の各証人尋問が施行された日が、いずれも前記取調官らの取調べのあった日から約七、八箇月も経過した後であることなどを考慮すると、稲森民が前記各証人尋問の際に、前記のごとき各供述をしたことをもって、直ちに、同人の供述記載内容が支離滅裂であって、措信できないというのは速断に過ぎ、他に、右各供述調書ならびに証人尋問調書中の稲森民の供述記載部分の信憑性を否定すべき首肯するに足る資料はなんら発見することができない。次に、また原判決が真実を伝えていないという稲森ゆうの36・4・20検(原判決書一〇丁裏一行目に36・4・18検とあるのは36・4・20検の誤記と認める)、奥西コヒデの36・4・18検および神谷逸夫の36・4・23検の各供述記載内容について検討するに、稲森ゆうの36・4・20検は、同人が、昭和三六年三月二八日同人の次男の嫁である稲森民を出産のため、その実家である奥西楢雄方まで送って行った時から再び自宅へ引き返すまでの前後の事情等について供述したものを録取したものであり、奥西コヒデの36・4・18検は、右の稲森民が出産のため、昭和三六年三月二八日稲森ゆうに伴われて、奥西楢雄方へ帰って来た時から稲森ゆうが再び同人方へ引き返して行った時までの前後の事情および本件ぶどう酒が奥西楢雄方へ届けられた後、被告人が右ぶどう酒を持って行った前後の事情等について供述したものを録取したものであり、神谷逸夫の36・4・23検は、同人が、被告人を初め、奥西チヱ子、北浦ヤス子らの平素の行動、同人らの性格、被告人方の茶園の消毒状況ならびに昭和三六年三月二八日稲森民が奥西楢雄方に帰って来た時の前後の事情および稲森ゆうを送って行き、再び奥西楢雄方へ引き返して来た奥西フミ子らと会い、同人らと共に奥西楢雄方前まで引き返して来た時の前後の事情等について供述したものを録取したものであって、右の各供述記載内容は、いずれも理路整然としていて、前後に矛盾撞着する点がなく、他の関係証拠ともよく符合しており、それらが、原判決のいうように、真実を伝えていないものとは到底認め難く、右各供述調書もまたその信憑性を認めるに十分である。更に、原判決は、石原利一、神田赳、林周子、副野清枝らの昭和三六年四月一六日以降の取調官に対する各供述調書は、いずれも本件ぶどう酒授受に関する時刻の点について、手直しを試みたものであって、いずれも信憑性がないものであるかのごとき説示をしているが、その各供述調書(すなわち、石原利一の36・4・20司、同36・4・21検、同36・4・23検、神田赳の36・4・20検、林周子の36・4・19検、同36・4・21司、副野清枝の36・4・19検)中の各供述記載内容をし細に検討してみても、右の各取調官が、右石原利一を初め、神田赳、林周子、副野清枝らに対し、当該供述を求めるにつき、不当違法な取調べがあったことを疑うに足る証左が毫もなく、また原裁判所の前同人らに対する各証人尋問調書(すなわち、石原利一の36・11・27原裁尋、神田赳の36・11・27原裁尋、林周子の36・11・28原裁尋および副野清枝の36・11・28原裁尋中)の当該証人の各供述記載に徴し、前記各供述調書中の各供述記載内容は十分信用するに足るものと認められ、これらの各証拠によると、かえって、原判決が措信するに足ると説示した前同人らの昭和三六年四月一六日以前の取調官に対する各供述調書(すなわち、石原利一の36・3・29司二通、同36・3・30司、同36・4・11検、神田赳の36・3・30司、同36・4・16検、林周子の36・3・29司、同36・4・1司、同36・4・16検、副野清枝の36・4・1司、同36・4・16検)中の同人らの本件ぶどう酒授受に関する時刻の点についての各供述記載部分は、いずれも同人らの記憶違いにもとずくものであることが明認されるので、該各供述記載部分は到底措信できないものであることが明らかである。

そして、さきにその信憑性について検討した稲森民、稲森ゆう、奥西コヒデの検察官および司法警察員に対する各供述調書を含む稲森民子こと稲森民の36・4・11司、同36・4・18検、同36・4・20司、同36・4・21司、同36・11・28および36・12・8各原裁尋、稲森ゆうの36・4・19司、同36・4・20検、同36・11・28原裁尋、奥西コヒデの36・4・4司、同36・4・18検、同36・4・20検、神谷逸夫の36・4・20司、同36・4・23検、同36・12・8原裁尋、武田優行の36・4・21司、同36・11・28原裁尋、稲葉満里子の36・12・9司、三重交通株式会社上野営業所長南川清孝から三重弁護士会々長宛の報告書、原裁判所の36・11・27施行の検証調書(その一)、同裁判所の36・12・8施行の検証調書(その一)、同(その二)、同裁判所の36・12・9施行の検証調書(その一)および当審における事実取調べの結果、特に稲森民の43・11・5当裁尋、稲森ゆうの42・10・19当裁尋、奥西哲也の42・10・19当裁尋、検察官の40・2・12施行の実況見分調書、当裁判所の42・10・18および43・11・4各施行の各検証調書(以上の各証拠のうち、後記認定に反する部分は、爾余の証拠に照らし、いずれもたやすく措信できないので、これを除く)を総合すると、

(1)  稲森ゆうが、稲森民を出産のため、奥西楢雄方へ送って来た後、再び名張市比奈知の自宅へ帰ろうと思って、奥西楢雄方の玄関上り口小縁上に掛けてあった柱時計を見たとき、時刻は午後三時四五分ごろであったこと、

(2)  奥西フミ子、稲森民、奥西久雄、同哲也の四人が、稲森ゆうを送って、奥西楢雄方を出発するときには、未だ本件ぶどう酒は、同人方に届けられていなかったこと、

(3)  右の奥西フミ子、同久雄、同哲也、稲森民の四人が、稲森ゆうを送って、奥西楢雄方前から約四八五・四メートル離れた名張市葛尾一四番地平井亭こと平井藤太郎方前のバス停留所附近に至った時には、同停留所を午後四時二分発の名張行バスは、既に同停留所を通過した後であったこと、

(4)  稲森民と奥西久雄の両名は、右の平井亭前から更に約一八〇メートル東に在る名張市家野所在の魚商山下芳男方前から東へ約三・六メートル行った地点附近まで、稲森ゆうを見送って行き、同所で、同人と別れ、奥西フミ子と同哲也の両名は、同所から更に東へ約六二〇メートル位行った地点附近まで、稲森ゆうを見送って行き、同所で、同人と別れ、直ちに同所から引き返し、右の魚商山下芳男方前附近で右フミ子らの帰りを待っていた稲森民、奥西久雄の両名と会い、右の山下方で、魚の罐詰と油揚げなどを買った後、同所から再び右両名と連れだって、奥西楢雄方へ引き返す途中、右の山下芳男方から約七、八〇メートル西方に引き返した地点で、後方からスクーターで、奈良県山辺郡山添村広瀬方面へ往診に行く途中の医師武田優行と会い、同所附近で、暫時立話などした後、同医師と別れ、前記平井亭まで帰り、同所で奥西久雄、同哲也の両名に菓子などを買い与え同所から再び奥西楢雄方へ向けて帰る途中奥西楢雄方から約三五四メートル離れた波多野橋上の道路開修記念碑前附近で、藁を積んだリヤカーに、牛をつないでいる同じ部落の神谷逸夫に会い、同所附近から、前記哲也は、神谷逸夫のリヤカーの上に乗せてもらい、奥西フミ子や稲森民らは、神谷逸夫と話しながら、奥西楢雄方前まで引き返し、同所で、右神谷と別れたが、それから間もなく、石原利一が神田赳の運転する小型四輪貨物自動車で、本件ぶどう酒などを運んで来て、奥西楢雄方前で右ぶどう酒を奥西フミ子に手渡したこと、

(5)  神谷逸夫は、奥西フミ子らと別れて間もなく、自宅に帰り、前記牛を自宅の牛小屋に繋ぎ、リヤカーから藁を降ろし始めたころ、奈良県山辺郡山添村岩屋所在の岩屋公民館で鳴らす午後五時のサイレンを聞いたこと

がそれぞれ認められ、また、前掲武田優行の36・11・28原裁尋および同36・4・21司を総合すると、同医師が、前記魚商山下芳男方西方七、八〇メートルの地点で、奥西フミ子、稲森民らに出会って立話などした時刻は、午後四時三〇分ごろから、遅くとも午後四時四五分ごろまでの間であったことが認められ、更に、前掲原裁判所の36・12・8施行の検証調書(その二)に徴すると、稲森民らが、右の武田医師と別れ、途中前記平井藤太郎方で買物などした後、奥西楢雄方前まで帰り着くまでに要した時間は、約一五分であったことが認められるから、石原利一が神田赳の運転する小型四輪貨物自動車で、本件ぶどう酒などを運んで来て、奥西楢雄方前でぶどう酒などを奥西フミ子に手渡した時刻は、早くとも午後四時四五分以後であったと認められる。

他方、前掲の神田赳の36・11・27原裁尋、原裁判所の36・11・27施行の検証調書(その一)および石原利一の40・1・14検ならびに当裁判所の42・10・18施行の検証調書を総合すると、

(1)  石原利一らは、前認定のとおり、奥西楢雄方前において、同人の妻フミ子に対し、本件ぶどう酒などを手渡した後、薦原地区公民館葛尾分館下の南田定一方横の共同倉庫前附近に至り、同所において、南田定一方へ運んで来た鶏の飼料一三袋を右共同倉庫前に降ろした後、直ちに同所を立ち去り、薦原農協に引き返したが、右の石原らは、その間、共同倉庫前附近において、坂峰冨子および神谷花子らの姿を見受けなかったこと。

(2)  石原利一らが、奥西楢雄方前から右の共同倉庫前附近に至るに要した時間は、約二二秒ないし約一分程度であったこと、

(3)  また、石原利一らが、右の共同倉庫前附近で荷降ろしをするに要した時間は、約一分二二秒位であったこと

などが認められる。したがって、石原利一らが、奥西楢雄方において、奥西フミ子に対し、本件ぶどう酒などを手渡してから、前記共同倉庫前附近に至り、同所で鶏の飼料を荷降ろした後、同所を立ち去るまでに要した時間は、約一分四四秒ないし二分二二秒位であったと思料されるが、また

坂峰冨子の36・11・27原裁尋、同42・10・20当裁尋、神谷花子の36・11・27原裁尋、同42・10・20当裁尋および原裁判所の36・12・9施行の検証調書(その一)を総合すると、

(1)  坂峰冨子は、本件が発生した昭和三六年三月二八日当時前記「三奈の会」の役員をしていたが、「三奈の会」の役員は、総会当日総会の準備をするために、午後五時までに前記公民館に集合することになっていた。そこで坂峰冨子は、当日自宅で午後五時のサイレンを聞くや、早速自宅を出て、自宅前から右公民館方面に通ずる坂道を一人でおりて行く途中、北浦ヤス子方附近で同人に会い、歩きながら同人と話などしたが、同人とはすぐ別れ、再び右坂道を下へ向っておりて行き、前記共同倉庫前附近に差し掛った際、神谷花子から呼び止められ、同女が、右共同倉庫前附近までやってくるのを待ち受け、同所で再び同女と暫時立話をしていたが、その間はもちろん、その直近前後ごろも、前同所附近で、石原利一らの姿を全然見受けなかったこと、

(2)  右の神谷花子もまた、坂峰冨子同様石原利一らの姿を見ていないこと、

(3)  坂峰冨子が、前同日同人方から、前記共同倉庫前附近に至るまでの間に要した時間は、約六分程度であったこと

がそれぞれ認められる。それ故、坂峰冨子が、右の共同倉庫前附近に至った時刻は、早くとも同日午後五時六分ごろであり、そのころには、既に石原利一らは、右の共同倉庫前を立ち去った後であったことが明らかであるから、石原利一が、本件ぶどう酒などを奥西楢雄方前で、奥西フミ子に対し、手渡した時刻は、遅くとも坂峰冨子が、右の共同倉庫前附近に到達した午後五時六分ごろから、二、三分前の午後五時三、四分ごろまでであったと思料されるのである。

以上要するに、石原利一が、本件ぶどう酒を奥西楢雄方へ届けたのは、奥西フミ子らが稲森ゆうを見送って行き、再び奥西楢雄方前に引き返して来た後の午後四時四五分ごろから、午後五時三、四分ごろまでの間であったと思料されるのである。なお原判決は、石原利一が、本件ぶどう酒を午後五時ごろ奥西楢雄方へ届けたとすると、石原利一は、同時刻に葛尾にいたことになるが、一方広島よし子の36・12・8原裁尋によれば、石原利一は、同時刻に名張市東田原の広島よし子方へ折詰を取りに行っていたことが認められ、同一人が、同一時刻に東田原と葛尾の二箇所にいることは、あり得ないことであって、当日の日の入りの時刻などを考慮すると、広島よし子の証言を採用すべきである旨説示しているが、広島よし子の36・12・8原裁尋によれば、広島よし子が、原裁判所の証人として、その取り調べを受けたのは、昭和三六年一二月八日であって、同証人が名張市東田原の自宅で、石原利一に対し折詰を渡したという日から、既に約八ヶ月余りを経過しており、その時期に果して右証人が前記折詰引渡の時刻を、右証人尋問の際、供述したように何時何分まで正確に記憶していたかどうか極めて疑わしく、しかも当審における事実取調べの結果、特に広島よし子の40・1・16検、同40・1・26検および広島よし子の43・11・6当裁尋に徴すれば、前記広島よし子の36・12・8原裁尋中の同証人の石原利一が昭和三六年三月二八日前同証人方へ折詰を取りに来た際の時刻の点に関する供述記載部分は極めてあいまいで、しかも不正確なものであって、到底措信し得ないものであることが一層明らかである。次に、また原判決は、石原利一は、農協から自宅へ帰る時に、道が明るかったので、乗っていた自転車にランプをつける必要がなかった旨供述しており、また昭和三六年三月二八日の日の入りの時刻が午後六時一二分であったことなどを考慮すれば、これまた広島よし子の供述を採用すべきである旨説示しており、なるほど石原利一の36・11・27原裁尋によれば、同人が同証人尋問の際、原判決摘録のような供述をしていること、および津地方気象台の36・9・27付証明書(原判決書に36・9・27付回答とあるのは36・9・27付証明書の誤り)によると、昭和三六年三月二八日の日の入りの時刻が午後六時一二分であったことがそれぞれ認められるが、他方石原利一の36・4・11検、同40・1・14検、奥西楢雄の42・3・30および43・11・7各当裁尋、原裁判所の36・12・8施行の検証調書(その一)および当審第八回公判における証人鈴木隆一の供述を総合すると、

(1)  昭和三六年三月二八日夕方石原利一と奥西楢雄の両名がそれぞれ自転車で帰宅するため、薦原農協を出発するころは、まだ明かるかったので、自転車に前照灯をつけなくても、十分自転車に乗って走れる程度の明かるさであったこと、

(2)  日没後でも、約三〇分間は、あたりが薄明かりの状態が続き、日の入りの午後六時一二分の場合には、それよりも約三〇分後の午後六時四二分ごろまでは、あたりは未だ薄明かるい状態であること、

(3)  薦原農協から公民館までは約二、七二〇メートルあり、石原利一が原裁判所の昭和三六年一二月八日施行の検証の際自転車で右距離を同年三月二八日当時と同一の速度で走行した場合約二五分かかったこと、

(4)  昭和三六年三月二八日当時石原利一と奥西楢雄がそれぞれ自宅に帰ったころには、既に日は暮れていて、部落の家々の電燈がついていたこと、

などがそれぞれ認められるので、石原利一が原裁判所の証人尋問の際に、前認定の供述をし、また昭和三六年三月二八日の日の入りの時刻が午後六時一二分であったとの理由のみで、本件ぶどう酒が奥西楢雄方へ届けられた時刻が、昭和三六年三月二八日午後五時ごろでなかったというわけにはいかず、また前掲広島よし子の36・12・8原裁尋中の同人の供述記載を全面的に採用しなければならないものでもない。したがって、原判決の前記説示は、事実に符合しないものといわなければならない。それ故原判決が、本件ぶどう酒は、昭和三六年三月二八日の午後四時以前に奥西楢雄方へ届けられていたものであると認定したのは、明らかに事実を誤認したものであって、原判決には、この点においても、また、事実誤認の違法があるものといわなければならない。

第三、被告人のいわゆる各自白調書の信憑性について。

原判決は、さきに説明したとおり、被告人のいわゆる各自白調書中、本件犯行の動機、準備、実行に関する各自白が、いずれも不自然であって、信憑性がないという。しかしながら、被告人の検察官ならびに司法警察員に対する各供述調書(ただし、否認調書を含め検察官に対するもの一〇通、司法警察員に対するもの一一通)をし細に検討してみるに、被告人は、本件につき、これが取調べを受けた当初、本件犯行を全面的に否認していたが、犯行後五日を経過した昭和三六年四月二日ごろから、右各取調官に対し、本件犯行が自己の犯行である旨自白するに至ったにかかわらず、同年同月二一日検察官に対し犯行の一部を否認した後、再度自白し、最後にまたまた犯行を全面的に否認したことが認められるところ、右の各自白が当該取調官のいわゆる誘導、強制等の不当違法な取調べに基づくものであることを疑うに足る証左が毫もなく、その各供述内容も理路整然としていて、前後に矛盾撞着する点がなく、他の証拠ともよく符合し、十分信用するに足るものと認められる。もっとも、原審第一四回公判調書中の証人辻井敏文の供述記載および被告人の36・4・3司に徴すれば、被告人が、警察官に対して、本件犯行を自供して間もないころ、当該警察官が被告人をして、報道関係者といわゆる記者会見をさせ、同人らの前で謝罪文を読ませたことが認められるが、ただそれだけの理由で、被告人の自供に任意性がないというわけにはいかない。そこで、以下において、原判決が、本件犯行の動機、準備、実行に関する被告人の各自白の信憑性の有無に関し説示する点につき、更に順次検討を加えることとする。

一、本件犯行の動機の点について。

原判決は、(一)被告人の36・4・2司、同36・4・3司、同36・4・7司、同36・4・9司、同36・4・14司、同36・4・14検、同36・4・15検、同36・4・18検、同36・4・19検および高橋一己の36・4・8検によると、被告人は、妻チヱ子および北浦ヤス子との三角関係を、さして精神的負担と考えていなかったことが推知され、また(二)福岡二三子の36・4・23検、原審第四回公判調書中の証人桂きぬ子の供述記載、山田清の36・4・16検、同37・6・13原裁尋、白沢今朝造の36・4・16検、原審第七回公判調書中の証人重福一男の供述記載および証第二八号の奥西チヱ子より桂きぬ子宛の手紙等に徴すれば、本件発生当時、被告人が、妻チヱ子と北浦ヤス子の両名を殺害しなければならない程追いつめられた状態にあったとは認められず、本件犯行の動機についての被告人のいわゆる自白調書に、信憑性がないというのである。

しかしながら、原判決摘録の各証拠を初め、籔下絹子、桂絹子、桂きぬまたは桂きぬ子こと桂キヌ子の36・4・18検、同36・4・20検、原審第四回公判調書中の証人桂きぬ子の供述記載、同43・11・8当裁尋、高橋一己の43・11・8当裁尋、神谷逸夫の36・4・2司、同36・4・4司、同36・4・6司、同36・4・23検、神谷花子の36・4・20検、同36・11・27原裁尋、坂峰冨子の36・4・7検、同36・4・19司、石原房子の36・4・8検、井岡百合子の36・4・11検、神谷すず子の36・4・8検、同36・5・8検、同43・11・8当裁尋、平井美子の36・4・23検、今井艶子の36・4・23検、北浦モトエの36・4・18検、足立敏子の40・3・20検、当審第八回公判調書中の証人足立敏子の供述記載、山田清松の43・11・7当裁尋、原審第七回公判調書中の被告人の供述記載(ただし、以上の証拠のうち、後記認定に反する部分は、爾余の証拠に照らし、いずれもたやすく措信できないので、これを除く)を総合すると、さきに第一の(一)のところでも既に認定したように、被告人は、昭和二二年二月ごろ妻チヱ子と恋愛結婚し、その間に、一男一女までもうけた身でありながら、昭和三四年八月ごろから、当時夫に死別して間のない同部落の北浦ヤス子と情交関係を結び、爾来同女方の近くの竹藪等で逢引きを重ねているうち、このことが漸次部落民の噂にのぼり、一方昭和三五年一〇月二〇日ごろの夜右の竹藪で前同ヤス子と逢引きをした直後、附近の道路を同女と連れだって歩いていた折柄、これを妻チヱ子に発見され、そのため、同女の不信をかい、そのころから、夫婦仲が次第に円満を欠き、なにかにつけて、右ヤス子のことに端を発し、夫婦間で、喧嘩口論が絶えなかったこと、殊に昭和三六年二月初めごろからは、その夫婦仲が一層険悪化して、被告人において、妻チヱ子に対し、家から出て行けとか、自分が家を出て行くなどと申し向け、また時には、暴力沙汰に及ぶこともあったこと、そのため、妻チヱ子においても、当時夫婦別れを真剣に考える程度にまでなっていたこと、一方北浦ヤス子においても、当時右チヱ子から、被告人のことでいろいろ責められるうえに、居村部落の婦人達からも、かれこれ嫌味をいわれ、そのため、同部落民と喧嘩口論したこともあり、被告人に対して、「もう逢うのを止めよう」というようになり、同年二月二〇日ごろ被告人と逢引きをした際、被告人に対し、今後関係を絶ちたい旨申し向けるに至った。そこで被告人は、平素右ヤス子のことを根に持ち、自分の言うことをなに一つ素直に聞いてくれない妻チヱ子の冷たい仕うちに腹を立て、同女を殺害しようと考えたが、一方妻チヱ子との夫婦仲が悪くなったのも、もともと右北浦ヤス子が存在し、同女と関係があったことも原因していると考えるようになり、いっそのこと、妻チヱ子と右北浦ヤス子の両名を殺害して、いわゆる三角関係を一挙に清算すれば、すべてがすっきりすると考えるようになったことが認められる。したがって、被告人が本件犯行当時妻チヱ子および北浦ヤス子との三角関係をさして、精神的負担と考えていなかったとは到底認め難く、この点に関する原判決の認定は事実を誤認したものであるといわなければならない。次に、また、前掲原審第七回公判調書中の被告人の供述記載を初め、原裁判所の37・6・13施行の公判準備期日における被告人の供述記載、籔下絹子こと桂キヌ子の36・4・18検、福岡二三子の36・4・27検、福田敬子の36・6・13原裁尋を総合すると、被告人は、昭和三六年三月一五日ごろ団体旅行で名古屋の飼料工場を見学に行った際、妻チヱ子に土産として、ストッキングとコンパクトを、また北浦ヤス子にこけし人形一個をそれぞれ買って来て、これらを、そのころ同女らに与え、また、同年同月一七日ごろ妻チヱ子が婦人会の人達と有馬温泉へ団体旅行に行った際、こづかい銭として金五百円を妻チヱ子に与えたこと、一方妻チヱ子も、右の団体旅行の際、被告人のために、煙草入れのケース一個を土産に買って来たこと、更にまた、同年三月一八日ごろ被告人が名張市内の洋傘店で婦人用の洋傘二本を買い、うち一本を妻チヱ子に、他の一本を北浦ヤス子に、それぞれ与えたことが認められるが、一方前掲証拠のうち、神谷逸夫の36・4・23検、神谷花子の36・4・20検、原審第四回公判調書中の証人桂キヌ子の供述記載等を総合すると、被告人は、無口で、平素なにを考えているのかわからないような陰険な性格の持主であることが認められるから、前認定のような事実があったというだけの理由で、直ちに、被告人が当時妻チヱ子や北浦ヤス子を殺害しなければならぬ程追いつめられた状態になかったと断定するのは、速断に過ぎるものと思料され、前掲北浦モトエの36・4・18検および今井艶子の36・4・23検によると、北浦ヤス子は、性格がきつく、昭和三六年二月ごろ、「自分は百姓をするつもりはないし、こんなところに居るつもりもない」などといっていたことが認められ、また桂絹子こと桂キヌ子の36・4・20検および同43・11・8当裁尋によれば、北浦ヤス子は、本件犯行当時右チヱ子に対し、「仕事がいやになった」とか、「死にたい」とかもらしていた形跡のあることが窺知されるので、右認定のような事実関係を総合すると、被告人において、本件犯行当時、その自供する以外の他のなんらかの差し迫った事情があったのではないかとの疑念が存しないわけでもないが、被告人の自供自体に徴しても、被告人に妻チヱ子、北浦ヤス子とのいわゆる三角関係の清算善処方について差し迫った事情があったものと認められなくはなく、その自供するところの本件犯行の動機が荒唐無稽なものでもなく、これが十分首肯し得られるものであることに鑑みると、被告人が本件の取調官に対しなした本件犯行の動機に関する自白に、信憑性がないというわけにはいかない。したがって原判決が、被告人の本件犯行の動機に関する自白に信憑性がないと判断したのは当らない。

二、本件犯行の準備の点について。

原判決は、(一)被告人が、本件犯行の前日本件の準備をするについて、山田兄弟が来ていたために、これが気がかりで、本件犯行の準備をするのに妨げとなって困った旨の供述記載がどこにもなく、この点に触れないで、本件犯行の準備の説明をしている被告人の自白は不自然であり、また(二)被告人の自白するような条件と方法で、一〇〇cc入りの瓶に入ったニッカリン・Tを、直径二センチメートル、長さ六センチメートルの竹筒の三分の二までに注入することは不可能であり、更に(三)被告人が、本件犯行に使用したニッカリン・T入りの瓶を、犯行当日の朝出勤途中投げ棄てたという名張川を、捜査陣が懸命に捜索したにかかわらず、これを発見し得なかったことを考慮すれば、被告人が、ニッカリン・T入りの瓶を名張川の流れに投げ棄てたという被告人の自白もまた不自然であり、結局本件犯行の準備についての被告人の自白に信憑性がない、というのである。

そこで、まず(一)につき案ずるに、なるほど、被告人のいわゆる自白調書中に、被告人の供述として、本件犯行の前日山田兄弟が被告人方へ来ていたために、これが気がかりで、本件犯行の準備をするのに妨げとなって困った旨の記載がないことは、原判決の指摘するとおりである。しかしながら、山田清の36・4・16検、同36・4・20検、同36・4・24検、同36・5・9検によれば、山田清は昭和三六年三月ごろ、年令一九才の未成年者であって、被告人より一七才も年下であったこと、同人は昭和三五年一二月初めごろから、同人の父親山田清松が、従前被告人やその妻チヱ子および北浦ヤス子らと共に稼働していた奈良県山辺郡山添村波多野街道沿いにある石切場で、右の者らと共に石工として稼働するようになった関係上、被告人のことを兄貴、チヱ子のことを姉さんなどと呼び、被告人方へは度々遊びに行き、テレビを見せてもらったり、風呂に入れてもらうなどして、被告人方一家とは極めて昵懇な間柄であったこと、右山田清とその弟山田治の両名は、本件犯行の前夜すなわち三月二七日午後七時過ぎごろ、被告人方へテレビ見物のかたわら、風呂に入れてもらいに行ったところ、丁度そのころ被告人方では夕食の最中であったため、被告人らよりさきに風呂に入れてもらい、風呂からでた後、被告人方の台所で、テレビを見たりなどして遊び、同日午後八時過ぎごろ被告人方から帰って行ったことがそれぞれ認められ、一方被告人の36・4・9司、同36・4・16検および原裁判所の37・7・5施行の検証調書に徴すれば、被告人は右の各取調官に対し、いずれも本件犯行の準備は、被告人方の台所の外の風呂場の焚き口前附近および同所から精米小屋に通ずる通路附近で敢行した旨供述したことおよびその供述する犯行の準備に要した時間は、僅か六分程度の極く短時間であったことがそれぞれ認められ、また被告人の36・4・21検によれば、被告人は本件について、当該取調官から、その取調べを受けた当初、山田兄弟が被告人方へ風呂に入りに来た日は、本件犯行の前々日の三月二六日と誤解していたのではなかったかとも思料される点のあることが認められる。そして以上認定の事実関係に徴すると、被告人は本件犯行の準備をなすにつき、山田兄弟の来訪を左程重要視していなかったか、さもなくば、被告人が取調官に対し、本件犯行の準備に関して供述する際、山田兄弟の来訪の日を誤解していたために、それに触れずに、本件の準備について説明したものと思料されるので、被告人のいわゆる自白調書中に山田兄弟の来訪が、本件犯行の準備をなすにつき、これが障害になった趣旨の供述記載がないからといって、被告人の自白が不自然であるというのは早計であり、それがために、被告人の右各自白調書に信憑性がないというのは当らない。

次に、(二)につき案ずるに、なるほど、前掲の原裁判所の37・7・5施行の検証調書によれば、原裁判所が、同日名張市葛尾一七一番地の当時の被告人方の風呂場焚き口前において、被告人の検察官に対する36・4・23付供述調書第一〇項に記載された状況(特に、同項記載の照度)のもとで、一〇〇cc入りのニッカリン・Tの空瓶に水を入れ、これを長さ六センチメートル、口外径二センチメートルの竹筒に注入する検証をしたところ、右の風呂場焚き口前が殆ど暗闇のため、右の注入行為等は手探りでもできないことはないが、竹筒へ注入した水の入り具合がわからず、多く注入し過ぎて、水が竹筒から溢れ出て、地面にこぼれるなどして、結局水を竹筒の三分の二だけ注入するということはできなかったことが認められる。ところで、被告人の検察官に対する36・4・23付供述調書第一〇項には、「精米機の小屋の電灯は四〇ワットくらいで、三月二七日頃は、精米機の上につるしていました。物置小屋からコードで引っ張って、精米機の上につるしていたのですが、鍬か何かをさしかけて、精米機の頭の上になっているところにつるしておいたのです。精米機はジョーゴ型で、大きいところで直径約六〇糎位で、それを入口のところから三尺位のところに置いてあったものです。それに奥のモーターからベルトでつないでいたものです」と記載されており、また前記検証調書の第一見取図によると、原裁判所は、被告人方の精米小屋の中のほぼ中央あたりの地上約一・四メートル位の高さに、四〇ワットの電燈一個をつるし、被告人方風呂場内の焚き口と反対側に二〇ワットの電燈一個をつけ、風呂場の焚き口の戸を閉めて、前記検証をしたことが認められる。他方被告人の36・4・9司の第二項に徴すると、被告人は、右の取調べに当った取調官に対し、被告人が本件犯行の準備をした当時被告人方の精米小屋の入口には、臨時の電燈がつけてあった旨供述したことが認められ、また司法警察員作成の36・4・10実見、司法警察員巡査部長加藤菊次作成の名張警察署長宛の「奥西勝が女竹筒を製作したと自供する場所の照度報告について」と題する書面、検察官の36・4・22施行の検証調書および当審第三回公判調書中の証人古川秀夫の供述記載を総合すると、本件犯行当時には、被告人方の前記精米小屋入口の上の敷居から六〇ワットの裸電球一個がつるされていたこと、同地点から五、六メートル離れた地点に置いてある物件が十分識別し得る程度の明るさがあったこと、および被告人方風呂場には、焚き口と反対の側壁の上に、一〇ワットの電灯一個がついていたことがそれぞれ認められる。したがって、被告人が本件犯行の準備をした時には、前記風呂場の焚き口前附近および同所から精米小屋に通ずる通路附近は、前掲被告人の検察官に対する36・4・23付供述調書第一〇項に記載されたような状況ではなく、もっと明るかったことが認められる。しかるに原審がこれに気付かないで、被告人が実際に本件犯行の準備をした当時の状況と異った被告人の検察官に対する36・4・23付供述調書第一〇項に記載された状況下において、前記検証を行い、被告人のいう竹筒にニッカリン・Tを三分の二まで注入することが不可能であるというのは、その前提に誤りがあり、右の検証の結果をもって、直ちに、被告人の本件犯行の準備についての供述がすべて信憑性がないというのは速断に過ぎるというの外なく、到底肯認することができない。そして、当裁判所の43・12・25施行の検証調書によれば、光度四ルックス程度の明るさがあれば、一〇〇cc入りの瓶に入った水を、外径約二五ミリメートル、内径約一七・七ミリメートル、深さ約六〇・一ミリメートルの証第六号の女竹筒に、約三分の二まで注入することは、必ずしも不可能でないことが認められるので、前記司法警察員巡査部長加藤菊次作成の名張警察署長宛の「奥西勝が女竹筒を製作したと自供する場所の照度報告について」と題する書面に記載された程度の照度があれば、被告人の供述するような方法で、前記竹筒の三分の二までに、水を注入することも十分可能であったものと思料される。したがって、(二)の原裁判所の判断についても、これを首肯することができない。

更に進んで、(三)につき案ずるに、なるほど、被告人のいわゆる自白調書において、被告人の供述として、被告人が、本件犯行に使用したニッカリン・T入りの瓶を、犯行当日の朝出勤途中、名張川の流れに投げ棄てた旨の記載のあること、および捜査陣が当時懸命に名張川を捜索したが、被告人の棄てたというニッカリン・T入りの瓶が発見されなかったことは、原判決の指摘するとおりである。しかしながら、司法警察員作成の36・4・6実見、同36・4・18第一回実見、同36・4・22第二回実見を総合すると、被告人が一〇〇cc入りのニッカリン・Tの瓶を棄てたという場所は、三重県と奈良県の県境の山間部を曲折して流れる通称名張川の上流であって、水深〇・八メートルないし一・六メートルの水流の比較的早いところであって、その附近には、大小無数の岩石が点在していて、流れが岩石によって障害され、常にその方向を変えて流れている場所であって、増水時には、水の流れも巾約八メートル位に広がる場所であるが、本件犯行当時、上流において、災害復旧工事をしていた関係上、水の流れも茶色に濁っていたことが認められるので、右の流れに投ぜられた瓶などは、容易に下流に押し流され、また時に空出した岩石にあたって、原形を止めないまでに破損することが容易に看取されるので、被告人が投棄したというニッカリン・Tの瓶が発見されなかったからといって、これをもって、直ちに、被告人の右自白に信憑性がないというわけにいかない。なお、被告人の36・4・2司および司法警察員作成の36・4・3捜差に徴すれば、被告人が昭和三六年四月二日司法警察員に対して、本件犯行を自供したため、翌三日司法警察員が同日付の上野簡易裁判所裁判官の発布した捜索差押許可状にもとづき、被告人方を捜索したところ、被告人方の住家西北方裏の風呂場の焚き口に接続した板囲いに、竹切り用の鋸が掛けてあり、該鋸の目には、被告人が右の供述調書で自供しているように、ニッカリン・Tを入れるための竹筒を作った時に付着したと思料される竹屑が付着していたことが認められ、また原審第一四回公判調書中の証人辻井敏文の供述記載に徴すれば、右証人が昭和三六年四月二日の午後七時過ぎごろから、名張警察署の保護室において、被告人を取り調べていたところ、被告人が右証人に対し、涙を流しながら、前掲供述調書に記載されたような内容の供述をしたことが認められるので、以上の事実関係に徴しても、被告人の本件犯行の準備に関する点の自白は、十分措信するに足るものと認められる。

三、本件犯行の実行の点について。

原判決は、また、本件犯行の実行についての被告人の自白が措信できない、といい、その理由として、(一)被告人は、本件犯行の当日午後五時一五分ごろ奥西楢雄方へ行き、玄関上り口小縁にぶどう酒が置かれていたのを見て、右ぶどう酒に、ニッカリン・Tを混入する決意をした旨供述しているが、ニッカリン・T混入の確実な目標物もないまま、ニッカリン・T入りの竹筒を準備して、これを携え、奥西楢雄方へ行ったというのは、完全犯罪を計画したという被告人としては、無計画なゆきあたりばったりの感じを受け、この点に関する被告人の供述は、不自然であって、理解できない、といい、また(二)ニッカリン・T混入は、本件犯罪の実行部分に該当し、最も重要な部分であり、被告人にとっては、一生忘れることのできない時点である筈であるにかかわらず、ニッカリン・T混入の時点に関する被告人の供述は動揺しており、検察官に対するニッカリン・T混入の時期についての説明も「……と思います」という表現形式を採っているばかりでなく、被告人自身検察官に対し、本件の中で、一番はっきりしない点は、ニッカリン・T混入の時期ですと供述しているが、およそ周到に計画準備されたという犯罪において、犯人が何時実行したかについて、最後まであいまいな供述をしていることは、その自白の証明力を著しく減殺する、といい、また(三)被告人は、取調官に対して、ニッカリン・Tを入れるために作った竹筒は、ニッカリン・Tをぶどう酒瓶に注入した後、公民館の囲炉裏の釜の下に入れて、燃やしてしまった旨供述しているが、囲炉裏の中から採取した竹の燃え殻らしい炭化物からは、燐元素はもちろん、有機燐化合物を検出されなかったのであって、被告人の右の自白は、なんら補強されていないことになる、といい、更に、(四)石原房子は、検察官に対して、被告人は公民館の囲炉裏の側で、石原房子らに対し、「わしは、今日会長に立候補したから、お前らに、ぶどう酒を奢ったんやで」など申し向けて、ぶどう酒の瓶を包んであった包装紙を下にさげて、見せた旨供述しているが、もし、被告人が真実ぶどう酒にニッカリン・Tを混入したものであるとすると、被告人において、果して右石原房子のいうような行動に出ることが心理的にできたかどうか、甚だ疑わしい、ともいうのである。

そこで、まず(一)について案ずるに、なるほど、被告人の36・4・3司、同36・4・9司および同36・4・14検によれば、被告人は、右の各取調官に対し、それぞれ原判決が摘録するような供述をしたことが認められるが、右の各供述調書中の被告人の供述記載部分をし細に検討すると、原判決が摘録する被告人の供述記載部分は、要するに、被告人は、本件犯行の二日前の三月二六日夜妻チヱ子から、同日午後公民館で開かれた「三奈の会」の総会の準備役員会の模様などを聞き、右の総会後に開催される懇親会に、場合によっては、女子会員用の飲み物として、ぶどう酒が出されるかも知れないと考え、またかりにぶどう酒が出されなくても、酒に砂糖を入れた飲み物位は、当然出されるであろうと予想し、その予想のもとに、右女子会員用の飲み物に、ニッカリン・Tを混入するなどして、妻チヱ子や北浦ヤス子を殺害して、いわゆる三角関係を一挙に清算することを思い立ち、翌二七日夜自宅の風呂場焚き口前附近で、ニッカリン・Tを入れるための竹筒を作り、これに、ニッカリン・Tを入れるなどして、予め用意しておき、犯行当日の午後五時一五分ごろ自己のジャンパーのポケットに右のニッカリン・T入りの竹筒を忍ばせて、「三奈の会」の当時の会長奥西楢雄方へ赴いたところ、たまたま同人方の玄関上り口小縁に、ぶどう酒の瓶などが置いてあるのを見て、ここにおいて、初めて、右のぶどう酒の瓶内に、所携のニッカリン・Tを混入することを確定的に決意したという趣旨であることが明らかであり、原判決のいうように、ニッカリン・T混入の確実な目標物もないままに、無計画に、ゆきあたりばったりに、ニッカリン・T入りの竹筒を準備したものでないこともまた明白である。それ故、原判決の(一)の説示は首肯することができない。次に、(三)につき、案ずるに、なるほど、ニッカリン・T混入が、本件犯罪の最も重要な部分であることは、原判決の指摘するとおりである。しかしながら、被告人が検察官に供述しているように「ニッカリンを入れることに夢中だったため、詳しいことを忘れている面もある」というのもまた十分首肯し得るところであるから、ニッカリン・T混入の時期の点に関し、被告人の供述に動揺があったり、また、被告人が取調官に対し、ニッカリン・T混入の時期に関して、その説明をするに当り、原判決摘録のような表現形式を採ったり、あるいは、被告人が原判決摘録のごとき供述をしたからといって、これらをもって、直ちに被告人の右自白の証明力が著しく減殺されるとか、自白に信憑性がない、というのは当らない。更に、(三)について、案ずるに、なるほど、被告人が検察官に対して、原判決摘録のような供述をしているにかかわらず、公民館の囲炉裏の中から採取した竹の燃え殻らしい炭火物から、燐元素はもちろん、有機燐化合物も検出されなかったことは、原判決の指摘するとおりである。しかしながら、岡村登の36・4・11検および石原房子の36・4・8検に徴すれば、石原房子らは、本件犯行が行われた昭和三六年三月二八日の夕方被告人が公民館の囲炉裏の火を焚き付けてから、暫くして、その囲炉裏から炭火を取って、これを公民館内に在った五、六個の火鉢に分けて入れたことが認められ、また原審第一三回公判調書中の証人岡田徳夫の供述記載に徴すると、原判決指摘のいわゆる竹の燃え殻らしい炭火物は、名張警察署の警察官が、本件犯行のあった日から約一週間後の昭和三六年四月三日ごろ、公民館裏の畑から採取して来たものであることが認められるので、右のいわゆる竹の燃え殻らしき炭火物が被告人において、囲炉裏の中で燃やしたという竹筒の燃え殻であったかどうか、甚だ疑わしく、かえって、萩野健児の44・3・14当裁尋に徴すれば、原判決指摘のいわゆる竹の燃え殻らしき炭火物の中には、竹の燃え殻はなかったことが認められる。したがって、右の炭火物から、燐元素はもちろん、有機燐化合物をも検出し得なかったからといって、これをもって、直ちに、ニッカリン・Tを入れていた竹筒を、囲炉裏の中で燃やしたという被告人の供述が、すべて信憑性がないというわけにいかず、また、いわゆる自白に補強証拠を必要とする趣旨は、被告人の主観的な犯罪自認の供述があっても、客観的に犯罪が全然実在せず、全く架空な場合もあり得るから、主として客観的事実の実在については、補強証拠によって、確実性を担保することを必要としたものと解せられるから、被告人の自白と補強証拠と相俟って、全体として、犯罪構成要件たる事実を認定し得る場合には、必ずしも被告人の自白の全部に亘ってもれなく、これが補強証拠を要するものでないと解するのが相当であるから、被告人の自白の一部について、補強証拠がないからといって、該自白がすべて信憑性がないというわけにいかない。最後に、(四)について、案ずるに、なるほど、原判決指摘の石原房子の検察官に対する供述調書中に、前同人の供述として、原判決摘録のような記載の存することは、原判決指摘のとおりである。しかしながら、被告人が、その供述するような手段、方法で本件ぶどう酒内に、ニッカリン・Tを混入した後に、被告人自身が、石原房子らの前で、同女の供述するような言動にでたからといって、ただそれだけで、本件犯行が被告人の犯行でなかったとか、同人の自白に信憑性がないというわけにいかない。

以上により、原判決の指摘する被告人のいわゆる各自白調書中の本件犯行の動機、準備、実行に関する各自白に信憑性が無い旨の各説示につき検討を加えたが、同各説示は、いずれもその理由のないことが明らかであり、他に右各自白の信憑性を否定すべき証拠も、被告人の否認の供述以外に、これを発見し難く、殊に被告人の右否認の供述が、他の措信し得る証拠に照らし、信用し得ないから、原判決が被告人のいわゆる各自白調書中の本件犯行の動機、準備、実行に関する各自白に信憑性がないと判断したのは失当というべく、ひいては、原判決は、結局、本件犯行の動機、準備、実行に関する各事実を誤認したものといわなければならない。

第四、公民館において発見押収された各証拠物について。

証第一九号の四ツ足替栓が、本件犯行の翌日である昭和三六年三月二九日午前一一時三〇分ごろ、巡査西井辻博によって、公民館囲炉裏の間の西隣の四畳半の間に置いてあった火鉢の灰の中から発見され、証第二号の耳付冠頭が、同日午後四時ごろ、三重県警察本部捜査第一課巡査部長菊地武によって、公民館の囲炉裏の間東北隅片開き戸のついた押入れの下段奥の方から発見され、また、証第四号の封緘紙大が本件犯行の二日後の三月三〇日午後零時三〇分ごろ、三重県警察本部刑事部鑑識課巡査部長中北正一、名張警察署巡査小嶽孝一により、右囲炉裏の間東北隅の片開き戸の取付箇所より約五六センチメートル東南方の壁際から発見され、更に、証第五号の封緘紙小が、本件犯行の三日後の三月三一日午後二時一五分ごろ、巡査部長川合長生によって、公民館の囲炉裏の間裏側の軒下に落ちていたのを発見されたことは、さきに第一の(十)で説明したとおりである。しかるに、原判決は、(一)公民館において発見された右の耳付冠頭および封緘紙大、小の各発見場所に疑問があるとし、また、(二)検察官によって、被告人が歯でかんで開栓したといわれる証第一九号の四ツ足替栓については、それが証第一号のぶどう酒の瓶に装着されていた四ツ足替栓であったかどうか疑わしいとし、その理由として、右(一)については、被告人は、そのいわゆる自白調書の中で、一貫して、ぶどう酒の瓶の栓は、囲炉裏の側で、火挾みをもって、栓を突き上げたところ、耳付冠頭がはずれたが、それがどこへ飛んだのかわからない旨供述しており、それは、とりもなおさず、耳付冠頭が囲炉裏の間に落ちている筈であることを意味しているのにかかわらず、被告人がニッカリン・Tを混入したと疑われている時点に接着して、囲炉裏の間を、その裏側の方から玄関の方へ向けて掃き出して掃除をしたという石原房子の目にふれず、もしそれが同女の目にふれなかったとしても、玄関の方向から発見されなければならないと思料されるのに、それと反対の方向の、しかも、耳付冠頭は、開き戸のついた押入れの下の奥の方から発見され、封緘紙大小もそれぞれ囲炉裏の間の裏側方面から発見されたが、被告人は、これについて、なんらの説明もしていない、といい、右(二)については、(1)証第一九号の四ツ足替栓の外側は、いたるところに錆が生じ、メッキが剥げており、一見して、相当古いものであることがわかり、また、(2)右の証第一九号の四ツ足替栓を、証第一号のぶどう酒瓶と同じ日に瓶詰されたと認められる同種の証第一四号および同第一七号の各ぶどう酒瓶に装着されている各四ツ足替栓ならびに被告人が昭和三六年四月九日名張警察署において開栓実験をした証第四二号の四ツ足替栓と比較すると、証第一九号の四ツ足替栓の内側には、真鍮メッキが施されているのにかかわらず、証第一四号、同第一七号の各ぶどう酒瓶に装着されている各四ツ足替栓および証第四二号の四ツ足替栓の各内側には、いずれも、右のような真鍮メッキが施されておらず、更に証第一九号の四ツ足替栓は、三二番位のブリキを使用しているにかかわらず、証第四二号の四ツ足替栓は、それよりやや厚いことが認められるので、証第一九号の四ツ足替栓が、証第一号のぶどう酒の瓶に装着されていた四ツ足替栓であったかどうか、甚だ疑わしい、というのである。

そこで、まず(一)につき、案ずるに、なるほど、被告人のいわゆる自白調書中に、被告人の供述として、原判決摘録のような記載の存すること、石原房子の36・4・8検、同36・11・27原裁尋および原裁判所の36・11・27施行の検証調書その三によれば、石原房子は、検察官の右取調べならびに原裁判所の右の証人尋問および検証の際、その都度、前同女が公民館の囲炉裏の間を、その裏側から玄関の方に向け掃き出して掃除した旨の説明をしたことが認められることは、いずれも原判決の指摘するとおりである。しかしながら、坂峰冨子の36・4・7検および当審における事実取調べの結果、特に当裁判所の41・1・20施行の検証調書および石原房子の41・1・21当裁尋、井岡百合子の41・1・21当裁尋、坂峰冨子の41・1・21当裁尋、中島鹿治郎の当裁尋を総合すると、石原房子は、昭和三六年三月二八日に公民館の囲炉裏の間を、箒で掃いて掃除をした時、同囲炉裏の間の裏側の障子が一枚開いていたので、同囲炉裏の間の南側の方から裏庭の方へ廻すように掃いて行き、同囲炉裏の北側の方をぐるっと廻って、表の方へ掃き出したことが認められ、また、司法警察員作成の36・5・1(実況見分の日は36・4・26)実見によれば、証第一号のぶどう酒の空瓶と同種のぶどう酒瓶に装着された四ツ足替栓の足部に、火挾みをあてて、下から突き上げると、同ぶどう酒瓶に、右の四ツ足替栓と共に装着されていた耳付冠頭は、約九一センチメートルないし一八〇センチメートル先附近まで飛ばされることが認められるから、前記耳付冠頭が、右囲炉裏の間の片開き戸のついた押入れ内から発見されたとしても、それは、耳付冠頭のはずし方如何により飛び込むこともあり得るし、また石原房子が、箒で、右囲炉裏の間を掃除した際、畳の上に落ちていた耳付冠頭などに気付かず、同耳付冠頭を、片開き戸の内へ掃き込んだのではないかとも考えられなくもないし、また封緘紙の大小が発見された場所などからみて、それらは、いずれも石原房子が右同様箒で、右囲炉裏の間を掃除した際、これに気付かず、証第四号の封緘紙大は、これを壁際へ掃き寄せ、また証第五号の封緘紙小は、これを裏側の障子の開いていたところから軒下へ掃き出したものと思料せられるので、右の各物件が、表玄関方面から発見されなかったことなどについて、被告人がなんらの説明をしていないからといって、それが不自然であるとか、不合理である、というわけにいかない。次に、(二)の(1)について、案ずるに、司法警察員作成の36・4・7実見添付の写真No.11と、当審第八回公判における証人鈴木勇の供述を総合すると、巡査西井辻博が、証第一九号の四ツ足替栓を、公民館の囲炉裏の間の隣の四畳半の間に置かれたアルミ製火鉢の灰の中から発見したときにはもちろん、警察科学研究所において、右の四ツ足替栓表面の痕跡について、その鑑定をした際にも、右の四ツ足替栓には、錆などがついていなくて、その表面の痕跡も、金属面が光っていて、光沢があり、一見して、古いものでなかったことが容易に看取されたことが認められるし、また、金沢大学医学部教授井上剛ほか一名作成の鑑定書によれば、同鑑定人らが、証第一九号につき鑑定した際には、既に証第一九号の四ツ足替栓はもちろん、証第四二号の四ツ足替栓にも、多量の錆が発生していたことが認められるので、右各証拠物の保管方法が十分でなかったために、錆が生じたものではないかと思料されるので、原判決の(二)の(1)の説示は首肯し難く、更に進んで、(二)の(2)について、案ずるに、当審第三回公判調書中の証人斉藤光雄、同梅本稔の各供述記載を総合すると、三線ポートワインを製造していた西川醸造所では、昭和三五、六年ごろ、ぶどう酒の瓶に装着する四ツ足替栓は、これを大阪市福島区海老江上二丁目所在の大正コルク工業株式会社に注文して、同所で造らせていたが、右大正コルク工業株式会社は、右の四ツ足替栓の値段を安くあげるために、四ツ足替栓の素材となるブリキ板を、一般の規格品を使用しないで、これよりも品質の幾分おちる規格外のものを使用していたため、ブリキの厚さにも、自然不揃いなものが多かったこと、また右大正コルク工業株式会社では、当時四ツ足替栓の内側になる部分に、金色のニスを塗って、一見真鍮メッキを施したかのように見えるものと、内側にニスを塗らないで、素材のままのものの両方を製造し、これを西川洋酒醸造所に納品していたこと、西川洋酒醸造所では、ぶどう酒を瓶詰めする場合、同一期日のものでも、内側に金色のニスを塗った一見真鍮メッキを施したように見える四ツ足替栓と、内側にニスを塗らない素材のままの四ツ足替栓とを区別することなく、一様に使用していたこと、したがって、同一期日に瓶詰めされたものの中にも、内側に金色のニスを塗った一見真鍮メッキを施したような四ツ足替栓を装着したものもあり、またそうでないものもあったことが認められるから、証第一九号の四ツ足替栓の内側の色と証第一四号、同第一七号および同第四二号の各四ツ足替栓の内側の色の違いとか、その厚さの違いをもって、直ちに、証第一九号の四ツ足替栓が、証第一号のぶどう酒瓶に装着されていた四ツ足替栓でなかった、というわけにいかない。

されば、この点に関する原判決の各判断は、いずれも当らないものというの外なく、ひいては原判決には、右各証拠物の取捨判断につき誤りがあるといわねばならぬ。

第五、原裁判所が取り調べた各鑑定書等について。

原裁判所が取り調べた各鑑定書等については、さきに第一の(十三)で既に説明したとおりであるが、原判決は、柏谷鑑定および古田鑑定(原判決は、前者を警察鑑定またはAといい、後者を名古屋鑑定またはBという)は、いずれも歯痕間隔の一致によって、証第一九号の四ツ足替栓上の痕跡が、被告人の歯牙によってつけられたものである旨の鑑定をしているが、右の各鑑定結果が採用できないとし、その理由として、(一)右各鑑定書によると、被告人の歯型を採った証第二〇号の右上犬歯と同第一小臼歯の間隔が、柏谷鑑定では九・七ミリあり、古田鑑定では、これが九・三ミリあり、また同じく第一小臼歯第二小臼歯のそれは、柏谷鑑定では六・七ミリあり、古田鑑定では、これが七・五ミリであって、同一の歯牙間の距離が計測者によって異る理由が不明であり、ことに、第一小臼歯と第二小臼歯の〇・八ミリの差は大き過ぎるし、また(二)柏谷鑑定および古田鑑定は、いずれも証第一九号の四ツ足替栓上の「きず」のうち、柏谷鑑定でaと符号した痕跡、古田鑑定で(イ)と符号した痕跡が、被告人の右上犬歯によってつけられたものである旨の鑑定をしているが、船尾鑑定(原判決は、これを慶応鑑定またはDという)によると、右の痕跡(すなわち、柏谷鑑定でaと符号した痕跡、古田鑑定で(イ)と符号した痕跡)は、他と比較して、きわめて深いことが指摘されており、また右の各鑑定および証第二〇号の歯型によると、被告人の右上犬歯の切端がかなり磨耗しており、他の歯牙の切端もしくは咬頭頂を結ぶと、幾分低くなることが認められるので、このようにひっ込んだ被告人の右上犬歯によって、証第一九号の四ツ足替栓上の前記痕跡がつけられるかどうか、甚だ疑問である、というのである。

そこで、まず(一)について、案ずるに、証人兼鑑定人古田莞爾の41・2・25当裁尋および当審第七回公判における鑑定人兼証人松倉豊治の供述に徴すると、歯牙間隔を計測する際には、計測の基準点の相違、計測器具の違いおよび計測者の計測の仕方の癖の相違などによって、同一歯牙間隔を計測する場合にも、多少の誤差が生ずるのはやむをえないところであって、〇・八ミリ程度の誤差が生じたからといって、これをもって、直ちに、それらの鑑定が間違っているというわけにいかないことが認められるので、柏谷鑑定および古田鑑定の歯痕間隔の計測結果に、原判決の指摘する程度の誤差のあることをもって、直ちに、同各鑑定結果を排斥する理由とするわけにはいかない。次に、(二)につき、案ずるに、原審第一三回公判調書中の証人柏谷一弥、同山本勝一、同真田宗吉の各供述記載、同第一四回公判調書中の証人柏谷一弥、同山本勝一の各供述記載、同第一六回公判調書中の証人古田莞爾の供述記載および前記証人兼鑑定人古田莞爾の41・2・25当裁尋を総合すると、証第一九号の四ツ足替栓の表面には、古田鑑定で(イ)と符号した痕跡のほか、同四ツ足替栓の表面外側の多少低くなった部分に、同鑑定で(リ)と符号した痕跡があり、これは、その条痕などからして、被告人の右上側歯でできたものと認められ、また(イ)と符号した痕跡と反対側には、同鑑定で(ホ)(ト)と符号した各痕跡があり、同各痕跡は、いずれも傷が浅いことが認められ、以上の各事実を総合すると、被告人の奥歯の方を少し浮かせたような格好で、証第一九号の四ツ足栓替の表面を、上顎の口蓋に対して並行にしておいて、同四ツ足替栓の表面を、急激に垂直に上に立てると、右上犬歯は、右側を上にして、幾分傾斜した格好になっているので。これに四ツ足替栓の表面が急激に作用すると、その角度の如何によっては、右上切歯や第一小臼歯よりも幾分低い右上犬歯でも、容易に、証第一九号の四ツ足替栓の表面に、船尾鑑定の指摘するような比較的深い痕跡がでる可能性が多分に存することが認められるので、右上犬歯の切端が、他の歯牙の切端もしくは咬頭頂を結ぶ線よりも幾分低いというだけで、証第一九号の四ツ足替栓の表面に、柏谷鑑定でaと符号した痕跡、古田鑑定で(イ)と符号した痕跡が絶対できないと断定するわけにいかない。(もっとも、前記松倉鑑定によると、柏谷鑑定でaと符号した痕跡、古田鑑定で(イ)と符号した痕跡は、被告人の上右Ⅱ歯((右上外切歯))によってできたものと認められる。したがって、かりに、右の痕跡が右上犬歯によって生じたものでないとしても、同痕跡が、被告人の右側の上顎の歯によってできたものであることにはなんら変わりがないのであるから、柏谷鑑定および古田鑑定を、証拠価値なしとして、全面的にこれを排斥するのは誤りであるといわなければならない。)

以上検討したところで明らかなように、前記各証拠物はもちろん、柏谷鑑定、古田鑑定は、いずれも被告人の本件自白の真実性を担保するものでこそあれ、決してこれを疑わしめるものでない。そして上来説明したごとく一件記録および当審における事実取調べの結果を総合すれば、本件公訴事実の証明は十分であり、これを証拠不十分とする原判決は、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認の違法を犯したものとして、到底破棄を免れない。検察官の論旨は理由がある。

よって、刑事訴訟法第三九七条第一項、第三八二条に則り、原判決を破棄したうえ、同法第四〇〇条但書に従い、当裁判所において、本件につき、更に判決する。

(罪となるべき事実)

被告人は、もと近畿日本鉄道株式会社の西名張検車区に車両の電気関係の修理工として稼働していたが、昭和二二年二月ごろ妻チヱ子(大正一五年五月一三日生)と恋愛結婚し、間もなく右検車区を退職して肩書本籍地に帰り、両親と共に農業に従事するかたわら、日稼ぎなどに従事し、右チヱ子との間に、一男一女を儲けたが、昭和三四年八月ごろから、当時夫に死別して間のない同部落居住の北浦ヤス子(大正一四年三月一八日生)と情交関係を結び、爾来同女方近くの観音寺下の竹藪などで逢引を重ね、その間衣類などを買い与えて、同女の歓心を買っていたが、このことが漸次居村部落民の噂にのぼるに至った折柄、たまたま昭和三五年一〇月二〇日ごろの夜、右の竹藪で、前同ヤス子と逢引きをした直後、その附近の道路を同女と連れだって歩いていた際、これを妻チヱ子に発見され、同女の不信をかい、爾来夫婦仲が円満を欠き、なにかにつけ、右ヤス子のことに端を発し、夫婦間に、屡々喧嘩口論を醸し、特に昭和三六年二月初めごろからは、右の如きいわゆる三角関係のため、夫婦仲が一層悪くなり、被告人において、妻チヱ子に対し、「家から出て行け」とか、「自分が家から出て行く」など申し向け、時に暴力沙汰に及ぶこともあったので、妻チヱ子においても、漸く夫婦別れを真剣に考える程度にまで同夫婦仲が悪化し、一方右北浦ヤス子においても、前同チヱ子から、被告人のことでいろいろ責められるうえに、居村部落の婦人達からも、かれこれ嫌味をいわれ、そのため、同部落民と喧嘩口論したこともあり、「被告人に対し、もう逢うのを止めよう」というようになり、同年二月二〇日ごろ、被告人と逢引きをした際、被告人に対し、今後被告人との情交関係を絶ちたい旨申し向けるに至った。かくして、被告人は、右三角関係の処置方に窮した末、平素右ヤス子のことに拘泥して、自分の言うことを素直に肯き容れない妻チヱ子の冷淡な仕うちに腹を立て、浅慮にも、同女を殺害しようと考えるようになり、一方妻チヱ子との夫婦仲が悪化したことにつき、右北浦ヤス子が存在し、同女と情交関係を結んだことが原因していることに想到するとともに、同女から前記の如く関係を絶ちたい旨申し向けられたことにもあきたらないで、いっそのことチヱ子とヤス子の両名を殺害して、右三角関係を一挙に清算すれば、すべてがすっきりすると考えるようになっていた折柄、たまたま同年三月二六日夜妻チヱ子から、予て被告人らの居住部落の名張葛尾の一八戸と隣接の奈良県山辺郡山添村の七戸合計二五戸から、一戸毎に、一人または二人ずつ出て、男子一二人女子二四人合計三六人の会員をもって組織していた生活改善グループ「三奈の会」の年次総会が、同年同月二八日の夜名張市葛尾七六番地にある同市薦原地区公民館葛尾分館で開催され、そのあと引続き恒例の懇親会が行われることを聞き、同懇親会では、場合によっては、女子会員達のために、男子側の酒とは別に、ぶどう酒が出されるか、あるいは、かりにぶどう酒が出されなくても、酒に砂糖を入れた飲み物位は当然出されるであろうと考え、右の懇親会の機会を捉え、右の女子会員用の飲み物に、予て買受けて所持していた有機燐製剤の農薬ニッカリン・Tを入れて飲ませる方法を思いつき、この方法によれば、酒好きな妻チヱ子と右北浦ヤス子が恐らく右の農薬入りの飲み物を飲んで死んでしまうであろうし、またこの機会だと誰の犯行かわからなくて済むであろうなどと思いめぐらした後、翌二七日夜自宅の風呂場の焚き口前から精米小屋に通ずる通路附近で、予て持ち合わせていた長き約三〇センチメートル、直径約二センチメートルの節付の女竹一本を、節から約六センチメートルの長さに切り、これと反対側の部分は節下約一センチメートルを残して切り落し、長さ約七センチメートル、深さ約六センチメートル、直径約二センチメートルの節付竹筒一個を作ったうえ、同竹筒内の約三分の二程度までに、予て、買受けて所持していた一〇〇cc瓶入りの農薬ニッカリン・Tを注入し、右竹筒の上部を、新聞紙の破れで蓋をし、これをそのまま、前記風呂場の焚き口前附近土間の所在の棚の上に置いてあったボール箱内に入れて予め用意しておき、その翌日である総会当日の三月二八日の午後五時二〇分ごろ、右のボール箱内から、ニッカリン・T入りの右竹筒を、当時着用していたジャンパーのポケット内に忍ばせて、自宅を出て、前記会場に出かける前、隣家の「三奈の会」の会長奥西楢雄方に立寄ったところ、同家表玄関上り口の小縁に、当夜の懇親会用の飲み物として、一・八リットル入り瓶詰ぶどう酒(三線ポートワイン)一本と同じく瓶詰日本酒二本が用意されていることを知り、ここにおいて、右の瓶詰ぶどう酒が、右懇親会の席上で、女子会員用の飲み物として出されることを察するとともに、同瓶詰ぶどう酒内に、所携のニッカリン・Tを注入しようと決意した矢先、たまたまその場に居合わせた右奥西楢雄の妻フミ子から、右のぶどう酒などを会場の公民館分館へ運ぶよう依頼されるに及び、直ちに右の酒瓶三本を、一人で携えて、前記公民館分館に運び、これを一旦同館内囲炉裏の間の流しの前の板敷の部分に置いたが、自己より一足遅れて、同館に、会場の準備をするため入って来た「三奈の会」の女子会員坂峰冨子が雑巾を取りに前記奥西楢雄方へ引き返し、同館内に、自己以外に、何人も居合わせないことを奇貨とし、その隙に乗じ、妻チヱ子および北浦ヤス子の両名にとどまらず、他の女子会員らにおいて、前記ニッカリン・T混入のぶどう酒を飲み、同人らが腹痛などを起して苦悶し、これがため、あるいは死亡するかも知れないことを十分認識しながら、ひそかに、右板敷附近において、前記瓶詰ぶどう酒の包装紙を開け、同瓶の口に装着されていた耳付冠頭を、同所に在った火挾みをもって開け、更に右耳付冠頭の下に装着されていた四ツ足替栓を、自己の歯でかんで開けた後、同瓶内に、予め所持していた前記竹筒内のニッカリン・Tを四ないし五cc位注入したうえ、四ツ足替栓を、右瓶の口にもとどおりかぶせ、包装紙で包み直して、前同様囲炉裏の間の流しの前に置き、同日午後八時ごろ総会が終り、間もなく懇親会に移った席上に、右のニッカリン・Tの混入されたぶどう酒瓶一本を出させ、その全量を、その場に居合わせた女子会員である妻チヱ子、北浦ヤス子、奥西フミ子(昭和六年二月二五日生)、中嶋登代子(大正一四年一月一四日生)、新矢好(昭和一〇年五月一〇日生)、福岡二三子(大正一三年一〇月一五日生)、坂峰冨子(昭和六年一〇月五日生)、井岡百合子(大正八年三月一〇日生)、伊東美年子(昭和六年八月一三日生)、植田民子(昭和六年一一月一〇日生)、神谷すず子(昭和二年一月三日生)、広岡操(大正一三年四月二三日生)、中井文枝(昭和五年三月二三日生)、石原房子(大正一〇年七月一〇日生)、高橋一己(昭和元年一二月二七日生)、今井艶子(大正一四年四月一三日生)、浜田能子(昭和六年一二月二九日生)、岡村清子(昭和三年二月二一日生)、南田栄子(大正一〇年九月一三日生)、中井やゑ(大正七年五月二〇日生)の合計二〇名に対し、その各自の湯呑茶わんに分け注いで、これを飲ませようとし、その結果、右の二〇名のうち、右農薬入りのぶどう酒を飲んで奥西チヱ子、北浦ヤス子、奥西フミ子、中嶋登代子、新矢好の五名をして、それぞれ有機燐中毒のため、間もなく、右公民館分館において、こん倒死亡するに至らしめ、これが殺害の目的を遂げた外、右同様農薬入りのぶどう酒を飲んだ福岡二三子、坂峰冨子、井岡百合子、伊東美年子、植田民子、神谷すず子、広岡操、中井文枝、石原房子、高橋一己、今井艶子、浜田能子の計一二名に対し、それぞれ、早急に治療を加えた結果、別紙(一)有機燐剤中毒者一覧表記載のとおり、加療に約一〇日ないし二〇日を要する有機燐中毒症の各傷害を負わせたにとどまり、また岡村清子、南田栄子、中井やゑの三名は、前記農薬入りのぶどう酒を全然飲まなかったため、なんらの中毒症状も起さず、右福岡二三子外一四名に対し、いずれも、これが殺害の目的を遂げなかったものである。

(証拠の標目)≪省略≫

(法令の適用)

法律に照らすと被告人の判示所為中、妻チヱ子、北浦ヤス子、奥西フミ子、中嶋登代子、新矢好に対する各殺人の点は各刑法第一九九条に、福岡二三子、坂峰冨子、井岡百合子、伊東美年子、植田民子、神谷すず子、広岡操、中井文枝、石原房子、高橋一己、今井艶子、浜田能子、岡村清子、南田栄子、中井やゑに対する各殺人未遂の点は、各同法第二〇三条、第一九九条に該当するところ、右は一個の行為にして数個の罪名に触れる場合であるから、刑法第五四条第一項前段、第一〇条により、犯情の最も重いと認める奥西フミ子に対する同法第一九九条の罪の刑に従って処断することとする。

そこで、情状について、考察するに、本件犯行は、被告人が妻チヱ子と恋愛結婚し、同女との間に、二人の子供まで儲けておきながら、妻チヱ子の信頼を裏切って、しかも夫に死別して間もない判示北浦ヤス子と情交関係を結び、不倫ないわゆる三角関係を続けるなどして、家庭不和の原因を自ら招来したものであるにかかわらず、右の三角関係の善後措置方に窮するに及び、右のチヱ子、ヤス子の両名にとどまらず、多数の罪なき人々までも犠牲にすることを十分認識しながら、敢行したものであって、その犯行の動機は、全く人倫に背き、憫諒すべき点がなく、また被告人は、その犯行をなすに際し、いわゆる完全犯罪を企図して、事前に、予め証拠の隠滅方法に関し、種々思いをめぐらしたうえ、周到な用意と計画の下に本件犯行を敢行しており、しかもその犯行の態様は、年一回開催されるに過ぎない前記「三奈の会」会員による懇親会の機会を捉え、同懇親会の席上、これを出席した多数の予て面識のある婦女子に対し、猛毒性を有する農薬入りのぶどう酒を飲ませて、同婦女子の殺害を企てたという極めて兇暴残虐なものであったこと、被告人の該犯行により、一瞬のうちに、妻チヱ子、北浦ヤス子の両名を含め、五名の婦女子の尊い生命が奪われ、一二名の婦女子がそれぞれ重軽傷を負い、とくに、その生命を奪われた被害者本人はもちろん、その遺家族に対しても、取り返しのつかない不幸と苦痛を与えるに至ったこと、しかるに被告人は、本件に関し、司直の取調べを受けた当初、本件を、妻チヱ子の犯行であったかの如き言を弄して、自己の責任を、既に本件所為により殺害された妻チヱ子に転嫁しようとしたばかりでなく、当審における事実取調べの結果に徴すれば、被告人は、本件が原審に係属中の昭和三九年八月ごろ三重刑務所拘置監において、当時同拘置監に被告人同様未決囚として在監中の高野亀一郎に対し、本件に関する罪証隠滅のため、内容虚偽のいわゆる偽せ手紙の作成方を依頼するなどして、本件の罪責を免れようと工作した事跡を窺知するに足り、その心情の卑劣さを看過し難いのに加え、被告人には、今なお、本件につき、反省悔悟の情が毫も認められないこと、更には、本件が、前記の如き本件各被害者もしくはその遺家族に与えた痛恨はもちろん、一般社会に及ぼした影響等を考慮すれば、被告人の本件犯行による罪責は、まさに極刑に値するといわなければならない。そして、本件記録に現れた被告人の年令、経歴、境遇その他一切の事情を斟酌考量してみても、被告人に対し、本件につき、特に情状を酌量すべき特段の事情のごときは、これを見出し得ない。よって、被告人に対しては、本件につき、前記の刑法第一九九条の所定刑中死刑を選択して、被告人を死刑に処することとし、なお原審および当審における訴訟費用については、刑事訴訟法第一八一条第一項但書を適用して、これを全部被告人に負担させないこととする。

以上の理由によって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 上田孝造 裁判官 斎藤寿 裁判官 藤本忠雄)

〈以下省略〉

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